第八話
道の雪は、町の手前で終わっていた。
(川下の町です。戸数、およそ四百。宛先の店は、市の通りに間口五間)
『五間』
峠をひとつも越えずに来た道は、最後に長い橋を渡った。橋の下を、荷を積んだ舟が三艘、続けて下っていく。人より荷のほうが、大きな顔で通る町だった。
村なら、子どもが先に見つけて、奥へ駆けていく。渡りだ、渡りが来たぞ。ここでは、誰の足も緩まなかった。人はいくらでもいるのに、誰も少年を見ない。見る理由が、ないからだ。
橋のたもとに、筵が三つ、並んでいた。人の形に膨らんでいるのもある。誰の目も、そこを素通りしていく。少年は三つ、と数えて、それから目を戻した。
*
市の通りに雪はなく、人と俵と荷車が道を埋めていた。間口五間の店は、探すまでもなかった。軒下に反物の段が組まれ、店の者が三人、客あしらいをしている。
土間の端に立つと、手代らしい若いのが寄ってきた。
「小僧、店先に立つな。物乞いなら、裏へ——」
「渡りです。山向こうの機屋から、返事を預かってきました」
手代が、続きを飲み込んだ。奥へ消え、すぐに戻ってきて、黙って上がり框を指した。
主人は、帳場の奥にいた。五十がらみの、乾いた手の男だった。名乗りより先に、手が出た。
「よこせ」
三行の返事を、主人は読んだ。読み終えて、もう一度読んだ。
それから紙を膝に置いて、はじめて少年を見た。
「この字は」
「ぼくです。機屋のおかみさんの、言うとおりに書きました」
「言うとおりに、か」
主人は、いま一度だけ、紙に目を落とした。
「山向こうで、村がひとつ焼けたと聞いた。舟の者が、そう言っていた。……これは、その後の返事か」
決めてあったから、言葉を並べ直す間はいらなかった。
「手紙に書いてあることが、すべてです」
主人の目が、すこし細くなった。値踏みの目なら、少年は市で覚えた。これは、違う。秤に載せるものを、載せ替えた目だった。
「機が変わった、とある。——物は、変わるか」
火事のことでも、機屋の身の上でもなく、縞のことを訊いている。
「わかりません」
少年は言った。
「機の音なら、聞きました。発つ朝も、鳴っていました。——止まりませんでした」
主人はしばらく黙った。それから帳場に向き直って、算盤を三度だけ弾いた。
「冬至の市には、間に合わんな」
(冬至まで、二十九日。借りた機での、厚織り二反の工程は——)
『いい』
数えるなら、あの人が数える。それは、商談の場でも変わらない。
「いつになるかは、聞いているか」
「織り手が、決めます」
「……そうか」
主人は筆を取った。返事は、長くかからなかった。封をしながら、口の端で言った。
「待つ。急がなくていい。値は、変わらん。——それだけだ」
茶を運んできた手代が、盆を置いた。
「焼け出された、と聞きましたが。すこしは、まかるのでは」
「叩いた値で買うと、次からそれが、うちの仕入れ値になる」
主人は、顔も上げなかった。
「いつもの縞は、いつもの値で買う。だから、いつもの縞が来る」
封書が、框の上を滑って、少年の前へ来た。宛名の字は、太く、確かだった。
「渡りの」
呼び方が、変わっていた。
「二日、居ろ。山へ発つ渡りがいる、と触れを回させる。まとめて運べ。銭は、出す者が出す」
「はい」
「飯と宿は、うちだ。届け先が持つのが、筋だろう。——町でも、そこは変わらん」
*
竈の脇で、少年は飯をもらった。女中がふたり、手を動かしながら喋っていたが、山のことも、焼けた村のことも、少年のことも、話には出なかった。
囲炉裏なら、誰かが訊く。どこから来た。山は雪か。ここでは、誰も訊かなかった。そのかわり、飯は多かった。椀に、二度盛られた。
蔵の脇の三畳が、寝床だった。夜具は、これまでのどの村のものより厚かった。
荷袋の底で、北東の手紙が眠っている。二日待てば、この上に、山向きの文が何通も重なるだろう。
『なあ。この町、あったかいのに、さむいね』
(気温は、氷点下二度。屋内は——)
『そういうことじゃ、なくて』
(……囲炉裏のある家が、すくない町です。火は、竈と火鉢)
『……うん。そういうことかも』
戸の外で、川の音がしている。
とん、からり、は聞こえない。
川の音は、夜も、止まらなかった。
(第八話 了)