第六十話
空がまだ夜の色のうちに、フィアハは目を覚ました。岩は昼の熱をとうに手放して、背中から朝の近さが伝わっていた。星は木々の間で薄れはじめ、東の稜線が墨の濃淡で分かれつつあった。荷は岩陰の奥へ寄せて置き、弓と矢筒だけを負った。張ったままの弦を指の腹でたしかめると、夜気を吸ってもたるんではおらず、はじいた音が短く返った。どけた石をもとへ戻し、火を使わなかった寝場所の草を起こして人のいた形を消した。獲る日の朝と同じ支度だったが、なにを獲る日なのかは考えの外へ置いた。
(風は、山から沢へ下りています。……こちらが、風下です)
訊くより先に、カラが言った。フィアハはうなずいて、杣道へは戻らず沢寄りの斜面を選んだ。道を行けば早いが、道は向こうの通い道だった。朝の山は鳥の声がまばらで、落ち葉を踏む自分の足音がいちばん大きく聞こえた。歩幅を狭め、足の外側から置く歩き方に変えた。猟師の家で教わった、獲物に近づく足だった。
煙の匂いは夜のあいだに一度絶えて、いままた薄く戻っていた。朝の煙はきのうの夕方のものより軽く、飯を炊く匂いが混じっていた。目印に覚えた高い杉が、明るみはじめた空を背に立っていた。杉の根方を過ぎ、斜面を斜めに登り切ると、木々の間が開けた。
*
開けた先は浅い窪地で、朝日のまだ届かない底に小屋があった。屋根の板は苔をのせ、壁の隙間は乾いた泥で塞いであった。古い杣小屋を住めるように直した構えで、けれども軒下の薪の積みは浅く、まわりに畑のひと畝もなかった。暮らしの家ではなく、用のあるあいだだけ人のいる家だった。窪地は沢へ向かって口を開き、山手から下りる風がそこへ抜けていた。口の脇の茂みにいれば、匂いも音も、向こうからこちらへ流れる形だった。
軒下に丸太を渡した干し場が組まれ、細い魚が列になって下がっていた。沢の魚を割いて干した、身の薄い魚だった。
(魚です。……数が、多すぎます。ひとりの食い分では、ありません)
カラの数える声は平らだった。フィアハは干し場から目を移して、小屋の脇を見た。
太い栗の木の根方に、縄が結わえてあった。縄はゆるくたわんで草の中へ延び、その先の草のくぼみに黒い塊がうずくまっていた。
熊は、生きていた。
横腹がゆっくり上がって、下がっていた。傷のある側を上にして頭を前脚の上に伏せ、耳だけがときどき立った。傷は覆われておらず、乾いた血が毛を固めているのが遠目にも分かった。食わせはしても、手当てはしていなかった。縄を引いた跡は根方の土に浅く残っているきりで、深くえぐれてはいなかった。引く力の残っていない体が、引いても無駄だと覚えた体になっていた。
フィアハは風下の茂みに片膝をついて、窪地をひとまわり見た。小屋の裏手に灰捨てがあり、灰の縁から骨が出ていた。太くて先の丸い、長い骨だった。鹿の骨とはちがい、山の獣の骨ともちがった。あの太さの脚を持つ獣は、山にはいない。里で飼われる獣の骨だった。骨は灰をかぶって古びていて、きのうきょうのものではなかった。
戸が開いて、男が出てきた。
年かさの男だった。灌木越しに一度だけ見た、あの背格好だった。着物は里の者の身なりのままで、山で寝起きする者の格好ではなかった。男は手桶を提げて、熊のほうへ歩いていった。
(歩幅が、ゆうべの跡と、同じです)
『……あの男か』
(同じです)
男は熊の鼻先に桶を置き、干し場から魚を二本抜いて桶のわきへ投げた。熊は頭を上げず、鼻だけが動いた。男は熊のかたわらにしゃがんで、その顔をのぞき込んだ。
「……食っておけ。」
低い乾いた声だった。朝の窪地は静かで、声は風に乗って茂みまで登ってきた。男は熊が魚に口をつけるまでそこを動かず、それから立ち上がり、腰を伸ばして小屋へ戻っていった。食わせ、休ませ、まわり道へ導いて歩かせた、あの足取りのままの世話だった。
*
朝日が窪地の縁を下りて、小屋の屋根に届くころ、男はふたたび戸口へ出てきた。手に砥石と、鞘を払った山刀を持っていた。小屋の前の平らな石に腰を下ろし、桶の水を砥石にかけて刃を当てた。研ぐ音が、変わらない調子で窪地に響いた。
フィアハは刃の立て方を見ていた。枝を払う研ぎでも、木を削る研ぎでもなかった。刃の背を寝かせて、先へ向けて薄く研いでいた。獲ったあとの仕事の刃だった。皮を切らずに剝ぐための、猟師の家で見た研ぎ方だった。
男は研ぎの手を止めずに、幾度か熊のほうへ目をやった。熊は魚を食い終えて、また頭を伏せていた。
「……これで、仕舞いだ。」
だれに言うでもなく、熊に向けたのか自分に向けたのか、聞き分けられない声だった。研ぎは途切れなかった。男は刃を起こして朝日にかざし、目で刃先をたしかめて、もうひと研ぎ足すというように砥石へ戻した。
熊は縄の先で眠り、刃はすこしずつ仕上がっていった。
男は、急いでいなかった。
(第六十話 了)