第六十一話
この話は初稿です。後日修正する可能性があります。
茂みの中で、フィアハは同じ姿勢のまま研ぎの音を数えていた。往復が百を越えたあたりで数えるのをやめ、それでも研ぎは続いた。片膝は土の冷えを吸ってとうに痺れ、弓を握る左手だけが乾いていた。待ち伏せの姿勢は猟で覚えたもので、痺れは待ちの値段だと教わっていた。窪地の朝日は小屋の前まで下りて、男の手もとの刃を白く光らせていた。熊は縄の先で伏せたまま動かず、横腹の上がり下がりだけが続いていた。小屋の煙は細くなって、朝めしの片づけの済んだ煙になっていた。研ぎの音とときおりの鳥と、それだけの朝だった。
研ぐ音が、止まった。
男は刃を目の高さに上げて、こんどは砥石へ戻さなかった。立ち上がって腰の帯へ砥石を差し、刃を右手に提げて、熊のほうへ歩き出した。その足取りは、けさ魚をやったときと同じに急がなかった。熊は頭を上げもしなかった。餌を運んでくる者の、覚えのある足音だった。
フィアハは弓を起こした。
考えは、なかった。矢をつがえる音も立てず、茂みの葉も鳴らさなかった。距離を計り、風を計り、男の足の運びを数えた。獲物までおよそ三十歩。風は山手から弱く、狙いは刃を提げた右手の甲だった。殺さないために、引く。的に向けて積んできた狙いが、はじめて人へ向いた。息を半分だけ吐いて、止めた。教わったとおりの呼吸が、勝手に体の中で進んだ。
(……)
その一拍より先に、指は弦を放していた。
矢は男の右手の甲を射抜いてなかばで止まった。山刀が刃を光らせたまま草へ落ちた。落ちた刃は熊まであと十歩の草の上にあった。熊は短い声をひとつ落として、縄の届く端まで体を引いた。男は手を目の高さに上げ、甲から生えた矢を見た。それから、声が出た。人の声とも思えない、なんの声とも判別のつかない、恐怖の音だった。
*
男はうずくまって手を胸に抱え、首をまわして窪地の縁を探った。抱えた手の先で矢の羽根が小刻みに揺れていた。茂みのフィアハを見つけて動きが止まった。フィアハは次の矢をつがえ終えていて、つがえた覚えはなかった。
男が動いた。落ちた刃ではなく杣道のほうへ、手負いの足のまま走る形に体が傾いた。
二の矢は、腿を射抜いた。
ためらいは、なかった。逃がさない手順が、手の中で勝手に進んだ。男は草の上へ転がって腿を抱え、恐怖の音がまた出た。こんどの音は長く途切れず、窪地の鳥が一斉に立って、羽音が散った。
フィアハは矢筒から三の矢を抜いてつがえた。
狙いが、上がった。腿でも肩でもない、もっと上の高さだった。動きを止める狙いではないことが、自分でも分かる高さだった。弦は限界まで引かれて止まり、引く指だけが静かで、まばたきを忘れた目が乾いていた。引き絞ったまま、呼吸ふたつぶんの間があった。的は、もう動かない的だった。
男の音が、止まった。
腿を抱えた形のまま男は動かなくなり、立った鳥のあとの窪地には、弦の軋みだけが耳の内側で鳴っていた。手の甲の矢も腿の矢も、揺れるのをやめていた。縄の先の熊までが頭を上げて、動きを止めていた。
(……)
カラは、なにも言わなかった。なにも言わない声が、すぐそこにいた。
指が、止まった。
弦をゆるめると、そこではじめて腕が震えはじめた。自分がどこを狙っていたのかを、ゆるめてから知った。三の矢を矢筒へ戻す指が二度すべった。弓を持つ左手は、開こうとしてすぐには開かなかった。息を吐くと吐く息が音になり、片膝の痺れがいまごろ戻ってきた。茂みの葉が腕に触れている感触も、鳥の遠い声も、順番に戻ってきた。世界が、端から順に帰ってきた。
*
男は腿の矢をつかみ、抜こうとしてやめた。立とうとして、崩れた。それからは立つことをやめ、両肘と傷のない側の足で、杣道のほうへ這っていった。恐怖の音は途切れず、這う速さに合わせて上がり下がりした。這ったあとの草が倒れて幅のある道になり、ところどころに腿の血が点を打っていた。あれほど急がなかった男が、急いでいた。
フィアハは追わなかった。追う足も残りの矢も、まだ手もとに持っていた。追わないことが、最後に選べるものとして手の中に残っていた。弓を下ろしたまま、男が杣道の折れ目へ這い込むまで茂みを出なかった。杣道は男が熊を導いてきた道で、こんどは男がひとりで下っていく道になった。声は折れ目の向こうへ遠ざかり、木々のあいだへ薄れていった。
窪地へ下りると、朝日が背中に当たった。熊へは正面を避けてゆっくり近づいた。手負いの獣がいちばん危ないことは、手当てをした相手でも変わらなかった。熊は伏せたまま、目だけがフィアハの動きを追った。傷は乾きはじめていて、毛の固まりが小さくなっていた。フィアハは落ちた山刀を拾った。研ぎたての刃は軽く、朝日を受けて濡れたように光った。熊を仕舞うために研がれた刃だった。縄は栗の根方で固く結ばれていて、ほどくより切るほうが早かった。
その刃で、縄を切った。
(生き抜きます、と、言いました)
(そのとおりに、なりました)
カラの声は、張りつめる前の平らな調子に戻っていた。熊はすぐには動かなかった。切れた縄の端が草へ落ちてから長い息をひとつして、前脚に力を入れた。二度目で立った。傷の側の足をかばい、フィアハを見ずに窪地の縁の木々のあいだへ入っていった。下草の鳴りが登りへ移って、しばらく続いた。
フィアハは山刀を小屋の前の平らな石へ置いた。研がれた刃は、持ち主の家の前で朝日を返していた。
窪地が、静かになった。
(……いま)
カラの声が、そこで止まった。フィアハは切れた縄を手にしたまま、続きを待った。
(いま、すこしだけ、なにかが、見えかけました)
(……もう、見えません)
『そうか』
『急がなくていい』
(はい)
立った鳥が一羽ずつ窪地へ戻ってきていた。日は底まで届いて切れた縄の端を照らし、熊の入っていった木々からは、もうなにも聞こえてこなかった。フィアハは縄を草へ置き、弓の弦に指をかけた。
ゆうべ張った弦を、外した。
(第六十一話 了)