第五十九話

W A T A R I   N O   S H O N E N

沢は夏の水で、渡るところの石はなかば沈んでいた。フィアハは浅いところを選んで渡り、濡れた足のまま獣の藪へ向かった。昼をまわった山は蒸れた草の匂いが濃く、背中の汗が乾く間もなかった。きのう下った道を、きょうは登り返す足だった。道は覚えたとおりで、灌木の茂みは昼の日を浴びて、蠅の羽音だけが先に聞こえた。羽音はきのうより薄かった。

藪の陰に、熊はいなかった。

草が体の形にへこんで、寝床の跡だけが残っていた。へこみの底の草は乾いた血で固まり、脇には自分が水を運んだときの足跡がまだ残っていた。フィアハはしゃがんでへこみに手を当てた。土に温みはなく、去ってからすくなくとも半日はたっていた。

猟師の家で教わった目で、傷を思い出した。あの深さの傷は、二日や三日で歩ける傷ではなかった。水をやり血を拭いたとはいえ、立つのがやっとの体だった。その体が、いない。

『……追えるか』

(跡は、残っています。ゆうべのものです)

藪の裏手に熊の跡があって、山の奥へ向かっていた。フィアハは跡を目でたどって、それから足を止めた。

熊の跡の横に、人の足跡がならんでいた。

草鞋の跡だった。熊の跡と同じ向きで、同じ間隔で、乱れなく続いていた。争った跡は、どこにもなかった。踏み荒らしも、血も、爪の掛かった木もなかった。フィアハは片膝をついて草鞋の跡に指を当て、縁の崩れ方をたしかめた。熊の跡と同じだけ乾いていて、同じ夜に付いた跡だった。手負いの熊と人が、けものみちを、ならんで歩いていた。

(人の足跡が、ならんでいます。……争った跡は、ありません)

フィアハは弓を負いなおして跡についた。

跡は沢筋を離れず、ゆるい登りを奥へ続いた。午後の日が木々の間から斜めに差して、跡の影が長く出た。沢の水音が右手に付いたり離れたりして、登るほどに細くなった。熊の跡は右の後ろ足が浅く、引きずった線が土に残っていた。傷の側の足だった。歩幅は狭く、人の足跡はその狭い歩幅に合わせて狭く刻まれていた。急かした跡も、待ちきれず先へ出た跡もなかった。

(跡の深さが、そろっています。急いでいません)

けものみちが岩場にかかるところで、跡はいちど途切れてまわり道をして続いた。岩を越えられない体を、越えなくていい道へ導いた形だった。フィアハは岩場の上に立ってまわり道の続きを目でたどった。導いた、と考えるのが、いちばん短い筋だった。短い筋のほかは、どれも遠かった。

半刻ほど登った先の木陰の平らなところで、草が広く倒れていた。

(ここで、止まっています。……長く、です)

倒れた草の真ん中に、熊の座った跡があった。座った跡の鼻先に小さな骨が散っていた。干した魚の細い骨で、噛み割られず舐められた形のまま石の上に残っていた。人が食ったのならこうは散らず、火の跡もないのだから、熊が舐め取った跡だった。骨は新しく、蟻が列を作っていた。骨のまわりの草には熊の毛が幾筋か落ちていた。立ち上がるとき、膝が半日の登りを覚えていた。

フィアハは骨を見て跡を見て、それからカラに訊いた。

『……これは、なんだ』

(分かりません)

分からないという答えが、いちばん正しい答えのようだった。手負いの熊が人とならんで歩き、休まされ、食わされながら、山の奥へ向かっている。ひとつずつは、ただの跡だった。ならべると、見たことのない形になった。フィアハは水を一口飲んで、倒れた草の向こうに続く跡へ目を戻した。跡はまだ先へ延びていて、先を知っているのは跡だけだった。

日が西の尾根にかかるころ、跡はけものみちを離れて杣道に入った。人の通う細い道で、下草が踏まれて固くなり、道ばたには枝を打った切り口の白い木が続いた。熊の跡は道の真ん中を堂々と通っていた。この道を、隠れずに通れる熊だった。

風向きが変わったとき、煙の匂いがかすかに届いた。飯の煙とも、炭の煙とも、まだ分からない遠さだった。杣道の先は木々の陰に折れて、その先は見えなかった。

日はあとすこしで尾根に沈む。ここから先は、灯りのない山になる。跡はもう逃げない——熊の足では、夜のうちに遠くへは行けない。追うなら、朝の光の中がよかった。山の分別だった。

フィアハは杣道を外れて沢の音の届く岩陰まで戻った。岩のあいだの平らな土に荷を下ろし、干し肉を水で流し込んだ。それから弓を取った。

朝を待たずに、弦を張った。

張った弓を膝のわきに置き、夜目のきかないうちに荷の口を結わえ、寝る場所の石をふたつどけた。火は、焚かなかった。

『あした、夜明けに』

(はい)

煙の匂いのした方角に目印の高い杉を覚えて、フィアハは岩に背を預けた。岩は昼の熱をわずかに残していて、夜気はまだ薄かった。星は木々の間に数えるほどしか見えず、風は夜になっても匂いを運んでこなかった。蟬が鳴きやんで、山は夜の音に変わりはじめていた。

(第五十九話 了)

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