第五十八話
発つ前に帳場へ寄ると、主人は筆を止めて頷き、それだけだった。それが、この家の見送りだった。
朝の舟着き場は、日の出とともに動きはじめていた。川の上にはまだ薄い朝霧が残っていて、舟は夜のうちにまた一艘増え、板の上を裸の背が列になって渡っていく。掛け声は夏の朝でも短く、俵が肩から肩へ移るたびに板が水の上でしなって鳴った。川面は朝の光をこまかく割って、目を細めないと男たちの顔が見分けられなかった。
橋のたもとの筵は、冬に四つあったのがふたつに減っていた。夏は日雇いに仕事のある季節だった。
男はこんども向こうから見つけてくれた。
「——渡りの」
俵の列の陰から声がして、男が手拭いで首を拭きながら出てきた。冬より日に焼けて、腕が太くなったように見えた。汗が首から胸へすじになっていて、朝のうちからもう何十の俵を運んだ体だった。
「峠下から、文です」
フィアハが荷袋から文を出すと、男は手を出しかけて、その手を引いた。読めない手だった。男は列の頭に何か合図をして、フィアハを岸の杭のところへ連れて行った。舫い綱の掛かった杭で、足もとで川の水が石を洗っていた。フィアハは封を開いて、読み上げた。
「——かわりない、と」
男は頷いた。
「——子が、字を、おぼえはじめた、と」
男の手が、袖の外で、ゆっくり握られて、開いた。
あの子が真似ている手だった。男は自分の手を見おろして、しばらくそのままでいた。川の水が杭を打つ音だけが、あいだを埋めた。
「……もういっぺん」
フィアハははじめから読み直した。二度目の「字を、おぼえはじめた」のところで、男は目をつぶって聞いていた。川向こうで舟の綱を解く声がしたが、男は動かなかった。読み終えると男は目を開けて、文の紙を見た。
「……それは、もらえるのか」
「はい。宛先は、あなたです」
男は両手で文を受け取り、畳み方を確かめるようにゆっくり畳んで、懐の奥へ入れた。濡れた手は受け取る前に腿で二度拭いてあった。それから、しばらく黙って川を見ていた。訊きたいことの多い顔は、冬と同じだった。冬と違ったのは、男がそれを口に出したことだった。
「……返しは、頼めるか」
フィアハは頷いて、荷袋から紙と矢立を出した。紙は川下で買い足した残りの一枚手前で、矢立の墨は朝の分がまだ濃かった。杭の頭を台にして紙をひろげ、川風で端がめくれないよう、左手で押さえて書く構えを取った。男は口述に慣れていなかった。何度か言い直し、言い直すあいだ、目は川の向こうの峠の方角を見ていた。書き上がったのは、短い文だった。
「——こっちも、かわりない、と」
「——字は、えらい、と。それだけでいい」
読んで聞かせると男は一度で頷き、もういっぺんとは言わなかった。自分の言葉は、一度で足りるのだった。フィアハは墨が乾くのを待って文を畳み、荷袋の峠下への側に入れた。急がない文で、この次の折に峠下へ届くはずだった。
男が懐に手を入れて、銭の音がした。
考えるより先に、首が振れていた。
男の手が止まった。フィアハは自分の首の動きを、半拍おくれて知った。文の代筆は仕事で、仕事の銭は受けるのが渡りの筋だった。筋は分かっていた。分かっていて、首はもう振れたあとだった。
男はしばらくフィアハを見て、それから懐から手を出した。空の手だった。男は何も言わずに深く頭を下げ、俵の列へ戻っていった。列に入る背中は、来たときと同じ日雇いの背中で、懐の奥にだけ、けさと違うものが入っていた。
*
町を出る道は、来たときと同じ、川に沿った道だった。日が高くなる前に発ち、荷袋には峠下への返しが一通入っていた。来たときより荷はひとつ増えていた。増えた分だけ、足は軽かった。朝の霧はもう晴れて、葦の上を燕が低く飛んでいた。
道の途中で、町の方から来る二人連れとすれ違った。鎌を担いだ日に焼けた男たちだった。
「——頭数が、まだ足りんと」
「熊の皮は、値になるでな」
声は通り過ぎて、二人の足音が背中で遠ざかった。フィアハは歩調を変えなかった。変えなかったが、聞こえた言葉は、荷袋の文と同じところに残った。
*
昼前に、道は川を離れて山にかかった。木々の影が道に戻ってきて、蟬の声が頭の上で厚くなった。道の砂が土に変わり、土が湿りを帯びて、山の匂いが夏草の匂いに勝ちはじめた。登りにかかる手前でフィアハは足を止めた。沢の水音が木々の下から細く届きはじめていた。獣のいた灌木の藪は、この道の先の沢を渡った向こうだった。まっすぐ帰るなら、寄る道ではなかった。
口の中で言った。
『あの獣のところへ、寄る』
(はい。道は、覚えています)
フィアハは登りにかかった。蟬の声の下で、足は迷わなかった。
(第五十八話 了)