第五十七話

W A T A R I   N O   S H O N E N

道が川に沿いはじめると、水の匂いが濃くなった。木々が切れて日ざしが正面から来るようになり、道の砂は白く乾いて足の下でかすかに鳴った。山道の下りで張っていた膝が、平らな道を踏むうちにほどけていった。川は夏の水を太らせて岸の葦を濃くし、日は西に傾いて、川面の光が目の高さで割れていた。

歩きながら、口の中で訊いた。

『……あの獣は』

(もう、聞こえません。……ですが、生き抜きます)

聞こえる範囲のことと、そうでないことを分けて言う言い方だった。フィアハは頷いて、それきり訊かなかった。葦の影が道に長く倒れて、道の半分は影の中になった。道は川と並んで下り、荷袋の中で文がひとつ紙の音を立てた。歩くうちに、水の音は葦の向こうで太くなったり細くなったりした。肩の弦の跡はもう消えていて、道には町へ向かう人の姿がぽつぽつと増えはじめた。荷車が一台、砂を鳴らして追い越していった。荷台には青物の籠が積んであった。

町は、川といっしょに現れた。舟着き場には舟が四艘ついていて、裸の背の男たちが俵を担いで板を渡っていた。担ぎ手の掛け声と、板のしなる音が、水の上をよく通った。夏の川は水かさが増して、舟の腹が高いところで揺れていた。冬に来たときは、雪の上に二艘だった。いまは数える前に、人の声のほうが多かった。あしたの文の宛先も、あの背中のどれかのはずだった。

町筋に入ると軒の日陰が濃く、店の間口を川風が抜けていった。魚を焼く匂いに日に干した網の匂いが混じり、子どもが水桶のまわりで騒いでいた。買い物の女たちが、軒の下を選んで歩いていた。通りの外れでは男がひとり、山羊の囲いに板を打ち足していた。金づちの音が、通りのざわめきの後ろで規則正しくつづいた。

呉服商の店の前まで来ると、店先に夏物の反物が出ていて、藍と生成りの色が夕方の光を受けていた。奥から布を巻き直す音がして、帳場には墨の匂いが薄く漂っていた。主人はフィアハを見ると筆を置いた。

「……機屋の、か」

「はい。文を、預かってきました」

封のまま差し出すと、主人は受け取って封と表の紙をあらためた。指は布を扱う指で、紙の上でも同じようになめらかに動いた。帳場の後ろの棚には反物が色ごとに立ててあった。

受け取るとき、主人の目が、弓のところで一度止まった。

主人は文を開いて黙って読み、帳面を引き寄せて、なにかを書き留めた。筆の音が二度三度して、書き終えると顔を上げた。

「たしかに」

商いの中身は訊かなかった。機屋を出た文が宛先の手に届いて、荷袋の文はこれで峠下の一通になった。主人は文を畳んで帳場の抽斗に収め、それからフィアハに、泊まっていけと短く言った。店の奥では手代が反物を棚に戻していた。

夕方の膳は、台所の板の間に出た。川魚の焼いたのと白い飯と、瓜の漬物だった。魚は夏の脂で皮が香ばしく焦げて、身は骨からよく離れた。漬物は歯ごたえがよく、塩が汗のあとの体にしみた。板の間には川からの風が通り、外はまだ明るさが残っていて、台所の土間では下働きの女が明日の米を研いでいた。板の間の隅には反物の切れが畳んで積んであった。フィアハは湯を使わせてもらって道の埃を落としてから膳につき、椀を二杯もらって、魚は骨だけを残した。

膳のあとに茶が出て、主人は一口飲んでから湯呑みを置いた。

「……山の道を、戻るのか」

「はい。あしたの配達が、済んだら」

「このごろ、山の獣が里の家畜を襲っている」

主人の目は、フィアハの顔にあった。値踏みの目ではなかった。

「囲いを破られた家が、ふたつみっつと聞く。狩りの話も、出ている」

フィアハは頷いた。通りの外れで囲いに板を打ち足していた男の、金づちの音を思い出した。

「……気をつけて行け」

それだけ言うと、主人は茶を取った。フィアハは頭を下げ、自分の湯呑みを両手で持った。湯気が細く立って、すぐ消えた。

夜になって戸口の風が涼しくなったころ、手代が灯りを持って来て言った。

「今夜も、蔵の脇でいいか」

「はい」

蔵の脇の三畳には夜具が出ていて、厚さは覚えているとおりだった。蔵の壁は昼の熱を残してほのかに温かく、灯りを置くと、壁の漆喰に自分の影が大きく伸びた。灯りを消すと、壁の温みだけがそこに残った。荷袋を枕もとに置くと、中で紙の音がした。峠下の返事が一通、残っていた。宛先の男の、袖の中で握って開く手癖を思い出しながら、フィアハは帯を解いた。

川の音は、夜になっても止まらなかった。夏の水は冬より高く鳴って、蔵の壁ごしに低くつづいた。通りのあちこちで戸締まりの音が順に鳴り、町の物音はひとつずつ減っていって、水の音だけが最後まで残った。

あしたの文は、その一通だけだった。

(第五十七話 了)

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