第五十六話

W A T A R I   N O   S H O N E N

日が傾くまでに、沢をふたつ越えた。道は低く下りながら曲がり、木々の匂いが夏の熱をふくんで濃くなった。峠の風とは違う、湿った土と葉の匂いだった。夜は道端の岩陰で火を焚いて眠り、火が小さくなってからも、しばらく虫の声が続いた。あくる朝、露の乾かないうちにまた歩き出すと、道は昨日よりゆるやかで、荷の重さもさほど気にならなかった。川下まで、あと半日かからないはずだった。

道の途中、草の倒れ方がふだんと違う場所があった。広い範囲で地面が踏み荒らされ、乾いた血の色が土に染みて黒くなっており、その上を蠅が低く飛んでいた。土のくぼみは深く、体重のある何かが長く押しつけられていたことを示していた。近くの灌木は枝が折れ、葉が地に散っていた。

「……ここで、なにかが争った」

(血の跡は、この先へ続いています。引きずったような跡が、混じっています)

血の跡は道をそれて、草の深いほうへ向かっていた。フィアハは弓を負いなおし、跡をたどった。踏まれた草はまだ起き上がりきっておらず、茎の折れ口も青いままで、争いはそう古いものではないとわかった。

獣は灌木の陰に伏せていた。

大きな熊で、横腹に古くない傷があり、毛が固まって黒ずんでいた。息は浅く速く、腹の動きだけがそれを示していて、体はほとんど動かず、目だけがこちらを追っていた。爪は土に食い込んだまま、立ち上がる構えは見せなかった。逃げる力ももう残っていないようで、傷を負う前はどれほどの大きさで山を歩いていたのか、いまの姿からは測りにくかった。

(心の臓の音が、速く弱く聞こえます。出血は、止まっているようです)

近づいても、獣は動かなかった。フィアハは傷の位置と乾いた血の量を見て、猟師の家で教わったとおりに考えた。これだけの傷を負って、獣はすでに二日か三日はここで動けずにいる。水を飲みに立つこともできず、腹の下の土は乾いたまま、獲物を追った跡もなかった。このまま蠅にたかられ、渇きに削られていけば、遠くないうちに終わる。楽にしてやるほうがいいのかもしれなかった。

矢を一本、静かに抜いて弦にかけると、手のひらに弦のざらついた感触があった。獣の首の付け根に狙いを定めた。

(……やめて)

弦にかけた指が、止まった。

(……お願いです、やめて。まだ、殺さないで)

事実を告げる声ではなく、なにかを止めようとする声だった。聞いたことのない声で、語尾もいつものように整っていなかった。フィアハは矢を構えたまま、口の中で訊いた。

『……なぜ』

(この獣は、生き抜きます。……分かるんです、なぜかは、分かりません。でも、生き抜きます)

同じ言葉を確かめるように二度は言わなかった。言い切ったあとカラは黙った。フィアハは獣の目を見た。獣も荒い息をつきながらフィアハを見ていて、目をそらさなかった。風が草を鳴らす音と、獣の呼吸の音だけがしばらくのあいだ続き、蠅の羽音がときおりそこに混じった。

弓を、下ろした。

『……分かった』

(……はい)

短い返事だった。だがいつもよりすこし遅れて来た返事だった。フィアハは矢を筒に戻し、荷袋から布と皮袋を出した。皮袋の水を布に含ませ、獣の傷口にこびりついた乾いた血をぬぐった。獣は身を固くしたが、爪も牙も使わなかった。傷はそれでも塞がらず、拭ったそばから薄く滲んだ。獣の鼻先は乾いて、荒い息のたびに細かなひび割れがのぞいた。水を飲みに立つこともできずにいたのだとフィアハは思い出し、皮袋の口を獣の口もとへそっと傾けた。獣は初め身を引いたが、やがて舌を伸ばし、こぼれる水をなめとった。皮袋が軽くなると、フィアハは近くの水音をたどって沢まで下り、汲んで戻ることを何度かくり返した。拭い終え、水を運び終えると、フィアハは獣から少し離れて腰を下ろし、汗の引くのを待ちながら道のほうを見た。木の間を抜ける風が汗ばんだ首すじを冷やしていき、獣の呼吸の音はまだそこにあった。

(ありがとうございます)

そう言われたのは初めてだった。フィアハはなにも返さず、ただ頷いた。獣の息はさっきよりわずかに落ち着いているようで、目もときおり細く開いてはまた閉じた。

物音がしたのは日が高くなったころだった。

草を踏む足音が慎重な調子で近づいてきた。人の足音で、忍ぶようでいて迷いのない歩き方だった。フィアハは音のするほうへ体を向け、灌木越しに人影を見た。年かさの男が一人、周りをうかがう素振りもなく、獣のいる方角へまっすぐ進んでいた。着物は旅の埃をかぶっておらず、この土地に暮らす者の身なりだった。それでいて、この道でここへ来る用のある者の歩き方ではなく、周囲を確かめながら進む足取りには人目を避けるような硬さがあった。

男は獣に気づいて足を止め、懐に手を入れて何かを取り出そうとした。

フィアハは矢をつがえ、狙いを男のすぐ脇の木に定めて、放った。

矢は乾いた音を立てて木の幹に刺さり、男は飛びのいた。

「……っ」

男はこちらを見た。フィアハは弓を構えたまま、動かなかった。次の矢はもうつがえていて、男の懐の手がどこで止まっているかも見えていた。男の顔には驚きよりも先に苦い色が浮かんでいて、見つかったことを悔いているようだった。男はしばらくフィアハと獣を見比べていたが、なにも言わずに背を向け、来た道を駆け戻っていった。走る足音が、木々のあいだへ遠ざかっていった。

(男の姿は、見えなくなりました)

フィアハは矢筒を確かめた。まだ数本、残っていた。木に刺さった矢はそのままにして、獣のほうを見た。獣は目を閉じていて、眠っているのか、そうでないのか、呼吸の浅さからは判じられなかった。日はまだ高く、蠅の羽音だけが変わらずそのあたりに満ちていた。

昼を過ぎて、フィアハは道に戻った。獣は灌木の陰に伏せたまま、ふり返っても、もう目を開けなかった。荷を負いなおすと、肩に弦の跡がまだ残っているのがわかった。矢筒の重さも、朝より軽くなっていた。

歩きながら、口の中で訊いた。

『……あの男は、また来るか』

(分かりません)

(はい)だけでなく(分かりません)とも言うようになったのは、いつからだったか、フィアハは思い出そうとしてやめた。道は緩やかに下りながら森を抜け、日ざしが強くなった。汗が背を伝い、荷袋の中で二通の文が紙の音を立てた。木々の切れ目に、川下の町の屋根が見えはじめていた。

(第五十六話 了)

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