第五十五話
棚の矢立のわきには、文がふたつならんだままになっていた。峠下の返事と機屋の文で、どちらも川下へ行く文だった。朝の土間はまだ薄暗く、戸口から入る光が棚の高さでちょうど止まって、文の白さだけをうかせていた。峠下の返事は自分が書いて畳んだ折り目のままで、機屋の文は預かった日の封のままだった。ふたつの文は厚みもちがって、峠下の返事は薄く、機屋の文はすこし厚かった。婆と男はもう畑に出たあとで、家の中には火の残りの匂いだけがあった。フィアハは水を一杯飲みながらそれを見て、あくる朝に発つことにした。
その日は日のあるうちに罠の道をひとまわりして、掛けてある罠をぜんぶ外した。山の道は夏の匂いがして、鳥の声は高いところで動いていた。罠はどれも空で、仕掛けた朝の形のまま乾いていた。仕掛けの輪をゆるめて紐を巻き取り、木に結んだ側もほどいて、ひとつずつ束ねて肩に掛けた。罠の道の草は歩くたびに踏まれて低くなっていたが、外してしまえば、夏のあいだに起きて道の形ごと消える草だった。最後の罠は沢に近い木の根方にあり、外した手をしばらく水にひたした。山の水は夏でも冷たくて、指の先がすぐに冷えた。束を負いなおしてから山を下りた。
納屋の中は昼でも薄暗く、外してきた罠は紐を巻きなおして荷の底に入れた。矢は一本ずつ抜いて羽と鏃をあらため、鏃のゆるんだ一本はその場で締めなおした。羽の傷んだ二本は、晩に火のそばで直すことにして分けておいた。矢筒は荷のわきに付け、冬にもらった古いかんじきだけは、壁に掛けたままにした。紙と矢立は油紙にくるんで道の干し肉より上に詰め、塩と火口は袋の口の近くに入れ、弓は弦を張らないまま戸口の脇に立てかけた。
夕方、明るさの残るうちに畑を見にいった。
蔓の先は、もう宙にはなかった。
支えの先にあたらしい枝が一本継いで立ててあり、皮の白い、切り口のまだ乾いていない枝だった。巻きひげはそのなかばまで登って、先は次の宙を探していた。枝の根元は、水の道の石で押さえてあった。畑のむこうでは男が今日も石を積んでいた。水の道の先は春より畑の奥へ伸びて、あたらしい水の音がそこから聞こえた。男はこちらを見なかった。婆は豆の筋のあいだにしゃがみ、葉の裏を返しては戻していた。葉のつけ根には白い小さい花が開きはじめていて、婆の指はその前で一度ゆっくりになった。フィアハは畝の外から畑をひとまわり見て、菜の筋の丈がそろっているのと、水の道の石が増えているのをたしかめてから、土間に戻った。
晩の膳は三人で囲んだ。戸は開けたままで、夕方の風が土間を抜けて火の匂いを外へ運んだ。菜の汁と麦の飯のいつもの膳で、汁の菜は婆が朝に間引いたものだった。婆は椀を動かしながら、土間の口で結わえてある荷袋を一度だけ見た。荷袋は、四日や五日の旅の形ではなかった。
フィアハは椀を置いて言った。
「あすの朝、川下へ行きます。文を、届けてきます」
婆は椀を持ったまま、フィアハの顔を見た。男は箸を止めなかった。
「……この次の折に、また」
婆の手が、止まった。
「そうか」
婆はそれだけ言って椀に戻り、それからは三人の箸の音だけがつづいた。めしのあとは火のそばで傷んだ二本の羽を直し、荷袋の口を開けて文の位置をたしかめてから結わえなおした。火が小さくなるまえに横になると、梁の上で夜の風が藁を鳴らしていた。眠りは、すぐに来た。
あくる朝は明るくなる前に起きて、土間の水を一杯飲んだ。水は夜のあいだに冷えていて、土間の土は足の裏に冷たかった。棚の文をふたつ取り、紙の乾きをたしかめてから荷袋のいちばん上に入れた。矢立のわきは、それで空になった。戸を開けると空は尾根の上だけ白くなっていて、鳥はまだ鳴かず、畑の水の匂いが戸口まで来ていた。婆はもう畑に出て、畝のあいだにしゃがんでいた。朝の水は畝から畝へゆっくりまわり、空をうつして、まわった先から順に明るくなった。男は水の道の口にいて、石を動かす低い音だけが朝の畑に通っていた。
フィアハは荷袋を負って畝の外に立った。婆は腰を伸ばしてこちらを見て、ひとつ頷いてから畝の水に戻った。畝の水は婆の手の先で割れて、また合わさって流れた。男は石を動かす手を止めないまま、一度だけ顔を上げた。フィアハは頭を下げ、畑のへりを回って谷の道へ出た。歩くあいだ、右手はずっと豆の葉の緑だった。背中で水の音と石の音がしていて、どちらも、ふり返らせる音ではなかった。
谷の口で、一度だけふり返った。
煙は、いつもの高さにまっすぐ立っていた。
立ちどまったのはひと呼吸のあいだだけだった。低地へ下る道は両側の夏草が背より高く伸びて、日が上がるまでは朝露が肩や袖を濡らした。春のおわりに登ってきた道だった。草の匂いは濃く、足の下の道は固くしまっていて、荷は重いのに足はよく出た。日が草の丈を越えるころには露は乾いて虫が鳴きはじめ、道のまん中の草は薄く、鳴くのは両わきの深い草の中だった。フィアハは荷の負い紐を掛けなおして、歩きつづけた。
渡った先で、道は沢を離れて草の中の下りになるはずだった。昼前、沢を渡る手前で足を止めて口の中で呼んだ。
『カラ、水』
(この先は細くなります。つぎに汲めるのは、夕方の泉です)
沢の石は夏の水の上に乾いて出ていて、フィアハは石づたいに下りて水を飲み、汲めるだけ汲んだ。水は山の水よりすこし温くて、それでも喉はよく鳴った。濡れた手を草で拭いて、道に戻った。カラはそれきりなにも言わず、沢の音は下るにつれてうしろへ遠くなり、かわりに草の音が道の両側から立った。風は下から吹いて荷の負い紐の端をかすかに鳴らし、川下の方の空は山の上の空より広かった。
沢を離れてしばらく行くと、道のわきの草が幅広く倒れて、大きい獣の通った跡が下の方へ抜けていた。跡は古いものではなく、フィアハはその先をしばらく目で追ってから、弓の負い方をすこし直して歩きだした。
日は高くなり、道は乾いた下りがつづいた。川下まで、峠はひとつもなかった。
(第五十五話 了)