第五十四話
豆の蔓が支えの枝の半ばまで登ったころ、フィアハはふたたび峠下と機屋へ発つことにした。こんどは配る文のない巡回で、荷袋には道の干し肉と、川下で買い足した紙と矢立を入れた。紙は油紙にくるみ、雨に当たらないよう干し肉より上に置いた。罠は前の日のうちに外して納屋の壁に掛け、弓は弦を張らないまま背に負った。
発つ朝の畑では婆が豆の筋のあいだで朝の水を見ていて、男は水の道の石をまた積み足していた。フィアハは戸口で四日か五日で戻りますと先に言った。婆は頷いて畝に戻り、それが見送りのすべてだった。谷の口でふり返ると、煙がまっすぐに立っていた。
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峠下の村へ下りる道は、両側の草が腰まで伸びて、田のあいだだけが刈られて細く通っていた。田の水は深い緑を映し、人はこんどは腰をかがめて草を取り、通るフィアハに顔を上げる者はほとんどいなかった。半日の道は乾いて固く、朝のうちに歩き切って昼前には村に入った。
あの家の戸口では土の上の線がふえていた。字の形になったのがいくつもならび、フィアハが一画を直した字は直したままの形で何度も書かれていた。女房は前掛けで手を拭いて出てきて、こんどは荷袋ではなく腰の矢立を見た。
「……書いても、もらえるかい」
春に届いた文への、返事だった。フィアハは上がり口に腰かけ、戸口の明るい方へすこし体を回してから紙をひろげて矢立の筆をぬらした。子が女房の後ろから土間へ下りてきて、筆の先の届くところにしゃがんだ。女房は前掛けの端を握ったまま、なにから言うかをすこし考えてから言った。
「かわりない、と」
「子が、字を、おぼえはじめた、と」
言われるとおりに、仮名で一字ずつ書いた。書いているあいだ女房は筆の先を見ていて、子も同じところを見ていた。書き終えて読んで聞かせると、女房は「もういっぺん」と言い、二度目を聞いてから頷いた。文は墨を乾かしてから畳んで預かり、昼の膳を分けてもらった。菜の汁と麦の飯で、汁の菜はこの村の畑のものだった。
家を出るとき子が棒を持ってついて出てきて、土の上にあたらしい線をひとつ書いて見せた。書いて見せた線は、ほとんど字になっていた。フィアハはしゃがんで足りない一画を指でさし、子が書き足すのを見てから道に戻った。
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峠は、夏の顔をしていた。草いきれが道の両側から立ち、登りで背中に浮いた汗が、木陰に入るたびに冷えた。沢の水は細くなって、渡るところの石が乾いて出ていた。
峠小屋の戸を開けると、乾いた匂いの奥に冷えた灰があった。春に自分が立てて出た枝は、なくなっていた。燃やされて、灰になっていた。軒下には、知らない手の束ねた枝が、あたらしく立ててあった。
受けて、残した者がいた。
昼を小屋で済ませ、湯を沸かした分の枝は峠を越えながら拾って戻すことにして、小屋を出た。頂に立つと来た方と行く方の両方が見え、谷の煙は夏の靄の中にかすんでいた。
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下りの道の途中から機の音が聞こえはじめ、集落に入ると音は戸ごとに出ていて、軒の糸は春より濃い色に染まっていた。夕方の日が糸の束を照らして、道に細い影を落としていた。機屋の家の前に立つと音がひとつやみ、女房が出てきて名乗る前に奥から畳んだ文を持ってきた。
「川下へ。……こんども、急がない」
封のまま預かると、女房は小さい銭を幾つか添えた。フィアハは黙って受けて、文を荷袋のいちばん上に、峠下の返事と重ねて入れた。ふたつの文は紙の音を立てて、荷の上でおさまった。弓のことも村のことも、訊かれなかった。
その晩は機屋の隅に泊めてもらった。機の音は暗くなってもしばらく続き、糸のにおいのなかで音のやむのを聞いてから眠った。
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帰りの峠は、登りの道々で枝を拾ってひと束にした。頂を越えて下りにかかり、峠小屋の軒下の知らない手の束のとなりに、その束を立てて過ぎた。
峠を下りきる手前で、声が来た。
(まだ、霞んでいます)
『わかった』
(はい)
そのまま歩き出しかけたところで、カラが続けた。
(……ひとつだけ、あります)
足が、止まった。
(音です。短い音で、なんども呼ばれていました。……その音が、まだ聞こえません)
『……それが、前の名か』
(わかりません。音だけが、あります)
『聞こえたら、教えて』
(はい)
それきりで、あとは足音と沢の音だけになった。晩は峠下の先の木の下で火を焚き、火のそばで機屋の銭を布に包み直してから眠った。あくる日の昼に谷へ下りた。
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畑の緑は、行きより濃くなっていた。婆は畑にいて顔を上げ、鍬を立てずにまた畝へ戻った。それが、いつもの戻り方になっていた。土間に入って水を一杯飲み、荷を下ろして旅の道具を元の場所へ返していった。
預かったふたつの文は、棚の矢立のわきにならべて置いた。峠下の返事と、機屋の文だった。どちらも急がない文で、川下へ行く日まで、そこが文の置き場になった。
晩の膳は三人で囲み、峠下の村と機屋の様子を婆に短く話した。婆は聞きながら椀を動かし、字をおぼえはじめた子のところで一度だけ手を止めた。
めしのあと、明るさの残るうちに畑を見にいった。
豆の蔓は支えの枝を登り切って、その先が、枝のない宙で揺れていた。
(第五十四話 了)