第五十三話

W A T A R I   N O   S H O N E N

豆の蔓が伸びはじめて、先が細くなり、絡むものを探すようになった。朝の畑で婆がその先をつまんで見せるので、フィアハは男と山へ入り、まっすぐで節の少ない若木を選んで切り、束ねて背負って下りた。婆が畑の端で待っていて、立てる場所を鍬の先で示した。枝は長さを揃えて土に深く挿し、ゆすっても動かないのを確かめてから次へ移った。男が挿し、フィアハが土を固め、言葉のないまま昼前に立て終わると、畑は急に丈の高いものがならぶ、見慣れない場所のようになった。立てたばかりの枝の列は風が通ると乾いた音を立て、婆はその間を歩いて一本ずつ手で確かめていった。

罠と的は変わらずに続いた。罠には二日にいっぺんほど兎が掛かって膳を支え、余りは軒下で干し肉になり、皮の枠は納屋の壁でまたひとつふえた。夏の日は朝から高く、昼の的は影が短かった。的の線は半歩さがり、さがった分だけ矢の落ちる先が変わって慣れるのに一巡かかった。外れの理由はたいてい自分で見つかった。朝に弦を張って夕方に外す形はそのままで、弓は夜ごと土間の壁に戻った。菜は筋の外側から順にとるようになって、汁の実が間引き菜から本当の菜に変わった。

猟に出た日には、風の変わり目だけをカラが言った。

『カラ、風』

(右からです)

呼びと答えのあいだは、もうほとんどなかった。名は、道具のように使われていた。

その晩は矢の手直しをしてから横になった。囲炉裏の隅で乾かしてあった山鳥の羽から、火の色のまじる尾のいいところを選んでゆるんでいた一本に挿げ替える仕事で、糸を巻く手は猟師の家の晩に見て覚えたとおりに動いた。挿げ替えた矢を筒に戻すと、筒の中で新しい羽と古い羽がならんだ。灯を落として横になると、家の中には婆の寝息と外にみちる虫の声だけが残った。夜気は昼の熱をすこし残していて、掛けるものはいらなかった。

眠る前のしずかな時間に、自分の名前のことを思った。霜月の九日がいちばん底にあり、その上にフィアハが載って、猟師の家ではフィアと縮んで呼ばれた。捨てるのではなく底に置いておくのだと、名をもらった晩に自分で決めたのだった。底にあるものは、なくならない。

それなら、と思った。

『……カラの前は、なんて呼ばれてた』

間があった。いつもの間より、長かった。炉の熾はもう暗く、虫の声が遠くなったり近くなったりした。

(……見えません)

聞いたことのない答えだった。カラはすこし置いて、訊かれてもいないのに続けた。

(記録が、ないのでは、ありません)

無いなら無いと言い、あるなら数字ごと言うのがカラだった。見えないという言い方はそのどちらでもなかった。言い直しも訂正も来ないまま、カラはその言葉をそのまま置いていた。フィアハは天井の闇を見たまましばらく考えて、それから言った。

『……急がなくていい』

(はい)

虫の声が、また同じ高さで続いていた。それで、その晩は終わった。

次の日もその次の日も、変わったことはなにも起きなかった。朝は畑の水を見て罠を回り、昼から的に立ち、夕方にもう一度罠を見る。一度は昼すぎに夕立が来て、干し肉を軒の奥へ入れ、的の藁が濡れたので次の日は的を休ませた。夕立のあいだは土間で矢柄を拭き、雨の上がりぎわの土の匂いが戸口から入ってきた。雨のあとの罠の道は通り跡が読みやすく、兎がつづけて掛かった。男は斜面の草を刈り終えて、こんどは水の道の石を積み直していた。積んだ石の間を水が細く落ちるようになり、その音が畑の新しい音になった。晩の膳は三人で囲み、菜の椀は日ごとに青みを増した。

その繰り返しのあいだにも夏は進んで、豆の蔓は一日ごとに指の形を変えながら、立てた枝のまわりで宙を探った。婆は朝ごとにその先を見て回ったが、掴まるまでは手を貸さないらしく、触れて向きを変えてやることはしなかった。カラは風と距離のことだけを言い、それも言わない日のほうが多かった。

数日たった朝は霧が薄く出て、沢の音がいつもより近くに聞こえた。罠を回って兎を提げ、沢筋の道を下っているところだった。ふいに声が来た。

(先日の、問いの続きです)

足が止まった。訊いたのは何日も前の晩で、あれきりこちらからは触れていなかった。

(まだ、霞んでいます)

問いは、消えていなかった。

フィアハは沢の音の中にしばらく立って、それから返事をした。

『わかった』

(はい)

歩き出すと道は同じ道で、腰の兎が歩くたびに揺れ、村の煙はいつもの場所に立っていた。その日は一日、カラはほかになにも言わず、夕方の的もいつもの数だけ放って終わった。

夕方、手桶に水を汲んで畑へ出ると、婆が手を止めて豆の筋の前にしゃがんでいた。手桶を置いて、となりにしゃがんで同じところを見た。

豆の蔓の先が、立てた枝にひと巻き絡んでいた。巻きは浅かったが、ほどける向きではなかった。

(第五十三話 了)

感想を送る

読んでくださって、ありがとうございます。
感想は作者に直接届きます(サイトには公開されません)。お名前の記入は任意です。