第五十二話

W A T A R I   N O   S H O N E N

朝めしの前に罠を掛け直しに行った。旅のあいだ外してあった輪をもとの三つの場所へ戻した。沢筋にふたつ、畑の上の斜面にひとつで、荷の中で擦れて細くなっていた紐は一本だけ替えた。通り跡は六日のあいだに変わっておらず、掛け終わると来た道を戻りながら足あとを消した。見回りの道は六日で草が起きて細くなっていたが、歩き直すとまた倒れて道に戻った。沢で手を洗うと、水はもう冬の刺す冷たさではなく、水の音も夏に向かって細くなっていた。

畑では豆の双葉の上に切れ込みのある葉が出はじめ、菜の筋は間引かれた分だけ一本ずつが太くなっていた。水の道に崩れはなく、畑の上の斜面では男が草を刈っていて、鎌の音が朝のあいだ遠くで続いた。刈られた草は水の道の口でひと山になり、乾けば焚きつけに回る草だった。婆は戸口の日なたに筵をひろげて藁を打っていた。打たれた藁はやわらかくなって、次の縄の束になるのを待っていた。

昼は干し肉と菜の汁だった。軒下の干し肉は飴色に乾いて固く、噛むと塩が出た。汁の菜は間引きの菜だった。

昼から的の前に立った。六本の羽は二本が新しく四本が古かったので、古いのから順に使った。六本を放って五本が立ち、外れた一本は風のない外れだった。放った形をそのまま保って体を探すと右の肩が見つかり、直して放った次の六本は六本とも立った。それで立つ線を一歩うしろへ引き直すと、下げた線からの一本目は藁の際を掠め、二本目から立った。日が西に寄るまでそれを繰り返して、汗が背中で乾いた。水を一口飲んでは、また線に立った。外れの理由を自分で見つけられる日はふえ、声の言う日は減っていた。

矢を抜きに歩く道々、藁の向こうの山を見た。夏の色が裾から上へのぼりはじめていた。羽のゆるんだ矢が一本あって、晩に回すことにした。

日が傾きはじめてから、弓を持って沢筋の上の草地へ出た。罠を掛け直した日は罠にはまだなにも掛からないから、膳のものは弓の仕事だった。弦は朝から張ってあった。夕方の草地は日が斜めに入って、草の実の穂が光っていた。

草地の入り口でしばらく全体を見ると、山鳥が一羽、草の実を食んでいた。どこで食っているかを先に見つけてから回り込む向きを決めるのが順で、草の倒れで風を読み、風下から寄った。距離は遠かった。首が下がっているあいだだけ足を出し、首が上がると止まった。一度乾いた枝を踏み、鳥は首を上げたが飛ばなかった。息を殺して長く待ち、首が下がってからまた寄った。三度そうして木の陰まで入った。陰に入ると、鳥までのあいだに遮るものはもうなかった。

矢をつがえて引き分けると、引き手が頬のいつもの場所に来た。鳥が首をもう一度上げ、下がるのを引いたまま待って、息を浅くした。

(風が、変わりました。左からです)

放つ前に、声が言った。フィアハは半歩まわって風を額に受ける位置を取り直した。鳥が首を下げた。放った。

羽音は、立たなかった。

歩いて行って拾うと、矢は貫いて草に立っていた。抜いて羽を確かめて筒に戻した。鳥は手にすると見た目より重く、尾の羽が長くて、火の色のまじる羽だった。始末はその場で軽くして腰に提げた。

帰りは沢に沿って下り、道すがら掛け直した輪を見て回った。三つとも空のままだったが、掛けた日はそういうもので、掛かるとすればあしたの朝からだった。

水の音が右で続いた。日が低くなって木の影が道を横に渡り、獲物が歩くたびに腰で小さく揺れた。下りの道は足が覚えていて、目は先の方を見て歩けた。

そのとき、冷たい風が上から下りてきた。北の尾根の風に似ていた。名をもらった土地の風だった。

フィアハは歩きながら言った。

『……おまえのは、まだないのか』

(はい。ありません)

しばらく足音だけがして、沢の音がそのあいだを埋めた。道が曲がって沢が背の側に替わり、水音が遠くなった。

フィアハは足を止めなかった。前を向いたまま、こんどは声に出して言った。

「カラだ」

理由は言わなかった。意味も言わなかった。教わった渡し方だった。

山の中でその音はすぐに小さくなった。声に向かって口に出してものを言ったのは、これがはじめてだった。

返事は、すこし遅れて来た。

(カラ、と記録します)

カラはそれきり黙っていて、フィアハもそれ以上は言わなかった。沢の音がすこしずつ村の水の音に変わり、木々の切れ目から夕方の炊ぎの煙が見えてきた。

道は村まで下りをひとつ残すだけだった。することは、なにも変わらなかった。呼ぶ名が、あたらしいだけだった。

村に入ると婆が畑から腰を伸ばした。フィアハが山鳥を差し出すと、婆は受け取って重さを手で量り、羽の色をすこし見てから、なにも言わずに土間へ持って入った。

弓の弦は戻ってすぐに外し、弓は土間の壁に掛けた。土間では婆が湯を沸かしていた。鳥を下げる支度の湯で、湯気が戸口の外まで流れていた。

羽は婆とふたりでむしって、ざるに山になった。婆の指は羽の先を撫でて固いのと柔いのを分け、いいのがひと束、囲炉裏の隅に吊るされた。矢羽の足しになる羽で、ゆるんでいた一本の手直しはその羽が乾いてからにした。

晩の膳に鳥の椀が出て、三人で囲んだ。鳥の汁は脂が浮いて兎より濃く、椀の底に脂の輪が残った。婆が男の椀に汁を注ぎ足して男は頭を下げ、膳が済むと、もう一度頭を下げて戻っていった。

寝る前に表で水を一杯飲んだ。夜気はもうぬるかった。壁では弓と矢筒がならび、そのわきの棚に川下で買い足した紙と矢立があった。どれも、この家に来てからふえた道具だった。

夜、横になってからしばらく天井の闇を見ていた。奥で婆の寝息が低く続いていた。渡した名は、まだ一度しか口にしていなかった。フィアハは口の中だけで言った。

『カラ』

(はい)

返事は、遅れなかった。用はなにもなかった。呼んでみただけだった。カラも、それ以上はなにも言わなかった。

炉の熾が壁にうすく色を残していた。外で、夏の虫が鳴きはじめていた。

(第五十二話 了)

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