第五十一話

W A T A R I   N O   S H O N E N

豆の芽が、筋の端まで出そろった日だった。膳が下がり、男が戻っていったあとも、婆は炉のそばにいて、いつもの縄をなわなかった。手の空いているのは、めずらしいことだった。それから、言った。

「……書いて、おくれ」

紙と矢立を、荷袋から出した。紙は、残りの少ないうちの一枚だった。平らな板を借りて、紙の下に敷いた。フィアハは炉の明かりの寄るところへ座り直し、矢立の筆をぬらした。婆は炉のむこうに座って、土の色の残る手を、前で合わせた。読み上げを聞くときと、同じ構えだった。なにから言うかを、婆はすこし考えていた。炉の火だけが、鳴った。

「出た、と」

フィアハは、書いた。仮名で、一字ずつ、ゆっくり書いた。でた、の二字はすぐに書けた。まめ、の丸いところで、筆がすこし遅れた。

「豆も、菜も、と」

書き終わるまで、婆は次を言わなかった。筆の先を見ていた。読めない字が、できていくのを見ていた。筆が止まると、続けた。

「教えのとおりに、と」

そこで、黙った。炉の火が、小さく爆ぜた。

「……深くは、埋めなんだ、と」

それで、言葉は終わりらしかった。フィアハは書き終えて、待って、顔を上げた。

「……結びは」

「……かあから、で、よい」

書いた。筆をおくと、炉のそばで、墨は早く乾いた。乾くあいだ、ふたりとも黙っていた。

フィアハは紙を持ち直して、炉の明かりの方へ体を回した。日のかわりに、火があった。読んで聞かせるところまでが、書く仕事だった。

「——でた。まめも、なも。おしえのとおりに、ふかくは、うめなんだ。かあから」

聞き終わるまで、婆は動かなかった。すこし黙って、それから言った。

「……もういっぺん」

はじめから、読んだ。二度目の終わりに、婆は合わせていた手をほどいた。

「それで、よい」

文は、畳んだ。畳んだ表を、婆はしばらく見ていた。読めない字を、読むみたいに見ていた。それから、フィアハに返した。

朝、支度をした。罠は、前の日のうちに外してあった。弓は、弦を張らないまま背に負った。文は、荷袋のいちばん上に入れた。戸口を出るとき、フィアハは先に言った。

「五日か、六日で、戻ります」

婆は頷いた。それから、小さい布包みを持って来て、荷袋の、文のわきに押し込んだ。銭の音がした。フィアハは、黙って受けた。

畑の豆は、朝の光で、葉の影をならべていた。畑の隅で男が顔を上げ、頭を小さく下げ合って、発った。谷の口で一度ふり返ると、煙が、まっすぐに立っていた。

低地の道は、乾いて固くなっていた。道ばたの田には水が入って、人が出ていた。冬に雪をかいて越えた曲がり角は、両側の草が腰の高さまで伸びて、道を細くしていた。朝のうちに長く歩き、昼の日ざかりは、木陰で休んだ。

途中の村では、春のはじめに一晩借りた家を、また訪ねた。二度目は、話が早かった。囲炉裏の隅と、汁の一椀が、黙って出た。うちに文はないかと、こんども訊かれた。ないと答えると、それで済んだ。荷袋は枕もとに置き、いちばん上の文を手でたしかめてから、眠った。次の晩は、村を過ぎた先の、木立の下だった。

二晩を道で過ごして、三日目の昼に、川下の町へ入った。町は夏に向かう匂いがして、川べりで、子どもが水に入って騒いでいた。

主人は、帳場にいた。開いた帳面から顔を上げ、フィアハを見て、筆を置いた。それが、迎えだった。

文を出すと、主人は受け取って、表を見て、裏を見た。なにも書いていない表だった。

「焼けた村の、婆さまの文です。……娘さんの、町あてに」

主人は頷いて、宛てを帳面に書き留めた。それから手代を呼んだ。北向きの文の箱が、帳場のわきに運ばれて来た。冬のあいだ、山向きの文がたまっていた箱だった。こんどは、山から来た文が、そこに入った。箱のなかの、いちばん上になった。手代が箱をかかえて、奥へ戻した。文は、見えなくなった。

フィアハは、婆の銭の包みをほどいて、出した。銭は、幾らでもない数だった。主人は数えて、半分ほどを取り、残りを押し返した。

「便は、十日のうちに出る」

「はい」

山向きの文は、いまはないという。それで、済んだ。弓のことも、村のことも、訊かれなかった。フィアハが土間を出るとき、帳場には、もう筆の音がもどっていた。

昼の残りで、町の店を回った。紙を買い足し、矢立の墨も、足した。

その晩は、蔵の脇の三畳で眠った。夜具の厚いのも、町の音も、覚えているとおりだった。三畳には、夏の風が通るようになっていた。夜半に、川の音がかすかにした。眠りは、すぐに来た。

帰りの荷は、紙の音がしなかった。来た道を、来たとおりに戻った。途中の村には寄らず、一晩目は、道ばたの祠の軒を借りた。軒の下に、前の者の枝はなかった。朝、道々で拾った枝をひと束、立てて出た。二晩目は、木の下で火を焚いた。枝を足しながら、フィアハは言った。

『あしたには、着く』

(はい)

六日目の昼、谷が見えた。煙がひとすじ、立っていた。下りながら、罠の道の口を過ぎた。六日のあいだに、倒れていた草が、起きかけていた。畑の緑は、発った日より濃くなっていた。婆の腰と、男の背中が、そのなかにあった。

戸口の前で、婆が顔を上げた。

「……預けてきました。便は、十日のうちに出るそうです」

「そうか」

フィアハは、残った銭の包みを婆に返した。婆は受け取って、帯に入れ、鍬に戻った。

夕方、畑を見にいった。菜の筋は間引かれて、丈がそろっていた。豆の筋に、葉がひらいていた。まだ小さい葉が、ふたつずつ、向き合ってひらいていた。

(第五十一話 了)

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