第五話
山をひとつ越えるのに、まる二日かかった。
(目的の集落です。戸数およそ二十。煙、七)
夕方の空に、煙が七本、まっすぐ立っている。焼けた匂いではない。竈の、飯の匂いだ。少年は肩の力が抜けて、それから、自分がずっと力を入れていたことに気づいた。
集落の入り口で、機屋一家の居場所はすぐに知れた。子どもに訊くと、「ああ、焼け出された人たちね」と、慣れた調子で一番奥の家を指さした。
焼け出された人たち。もう呼び名がついている。
荷袋の中の手紙は、焼ける前の機屋に宛てて書かれたものだ。宛先の家は、もうない。宛先の人は、いる。
*
一番奥の家は、まわりの家より、すこしだけ煙が細かった。
戸を開けたのは、機屋の女房だった。
「渡りです。文を、預かってきました」
どこから、と訊かれる前に、女房の目が少年の荷袋に落ちて、動かなくなった。焼けた村のことは、集落の噂がもう追い越していたらしい。悪い知らせは、手紙より足が速い。
納屋が、住まいになっていた。壁際に藁が積まれ、子どもがふたり、奥で繕い物の山を挟んで座っている。亭主は薪を割りに出ているという。この家は女房の実家で、老いた父母がいて、戸口で少年に頭を下げた。渡りに頭を下げる家は、めずらしい。
手紙は、川下の町の呉服商からだった。女房は字が読めた。土間に立って封を切り、黙って読んで、読み終えてから、もう一度はじめから読んだ。
「……なんだって」と、薪を抱えて戻った亭主が訊いた。
「注文」
女房は紙を持ったまま、笑うのとも違う形に口を動かした。
「冬至の市に出す厚織りを、二反。——いつもの縞で、って」
いつもの縞。
注文の手紙は、焼ける前の機に宛てて書かれている。呉服商は何も知らない。あの縞を織った機が、もう炭になっていることも、織り手がいま、実家の納屋で繕い物をしていることも。
(受注から冬至の市まで、三十八日。厚織り二反の工程は——)
『いい』
少年は数字を遮った。数えるなら、女房が自分で数える。それはこの人の仕事の内側で、渡りの領分ではない。
「機がないよ」と亭主が言った。ただ、事実として。
「ある」
答えたのは、女房の母親だった。老母は納屋の隅の、筵をかけた影を指さした。
「わたしの嫁入りの機。古いが、狂ってはいないはず」
筵を外すと、埃の下から古い機が出てきた。女房は枠に手を置いて、しばらく黙っていた。埃を払う手つきが、途中から、埃を払うのとは違う手つきになった。
「……納期は、間に合わない」
「書けばいい」と老母が言った。「遅れます、って。それでも要るなら向こうは待つし、要らないなら、それまでの縁だ」
夕餉は、六人と一人で囲んだ。飯の椀は、子どもらから順に盛られた。女房の父親は自分の椀に半分だけよそって、誰にも何も言わせなかった。薪の山は、冬と人数に対して、小さい。誰のせいでもない。家がひとつ分の大きさしかないだけだ。
返事は、少年が書いた。市で求めた小さな矢立が、はじめて仕事をした。
女房の言うとおりに、三行。
——うけます。のうきは、おくれます。はたが、かわりました。
火事のことは、書かない。女房がそう決めた。
「言えば、まけてくれるかもしれないよ」と亭主。
「まけてもらった値で織ると、次からそれが、うちの値になる」
*
朝、発つとき、背中で機の音がはじまった。
とん、からり。とん、からり。
借り物の機は、音がすこし違う。それでも、止まらなかった。
(川下の町まで、二日半)
『うん』
荷袋の中で、三行の返事が、注文の手紙と背中合わせに入っている。行きの手紙は、何も知らずに来た。帰りの手紙は、ぜんぶ知っていて、三行しか言わない。
それを届けるのが、渡りの仕事だった。
(第五話 了)