第四話
峠を三つ越えた先で、風の匂いが変わった。
焦げの匂いだ。竈の火とも、炭焼きの窯とも違う。冷えて、雨を吸って、それでもまだ残っている焦げの匂い。
(次の配達先です。戸数およそ三十——)
声が、途中で数え直した。
(——確認できる屋根、十一)
坂を上がると、村が見えた。見えたものを、村と呼ぶなら。
黒くなった梁が、骨の色の空を指している。畑は踏み荒らされたまま、誰も直していない。門のあった場所に、白布はない。
(この地方の服喪の風習は、死者が出た家が白布を掲げます)
『……うん』
(掲げる家が、残っていません)
少年は荷袋の口を、そっと締め直した。この村あての手紙は、二通ある。
*
村の道には、灰が薄く積もっていた。踏むと、下から黒いものが覗く。
(飲用可能な井戸、一。無事な屋根、三。人の気配、納屋の方向)
納屋の戸は、内側から縄で結わえてあった。
「渡りです。文を持ってきました」
しばらくして、縄のほどける音がした。
中には五人いた。婆がひとり、男がひとり、女がふたり、子どもがひとり。男は左の肩から胸にかけて布を巻いていて、その縁が赤黒く染みていた。傷は熱を持っているらしく、男は壁にもたれたまま、浅く速い息をしていた。膿の匂いが、焦げの匂いに混じって鼻の奥に届く。
「……渡りの」
婆が言った。
「よく来たね。もう誰も、来ないかと思った」
手紙は二通。一通は、この男——粉屋の跡取り——宛だった。差出人は、三つ先の町へ嫁いだ妹。
少年が読み上げる。
「『兄さん。麦の出来はどうですか。こちらは子が歩くようになりました。祭りには帰ります。母さんの膝は、その後どうですか——』」
途中で、少年は読む速さをすこしだけ落とした。
手紙は、夜が来る前に書かれたものだ。麦の心配をして、祭りの約束をして、この村がまだ村だったころの言葉で書いてある。手紙は、書かれてから届くまでのあいだ、何も知らずに旅をしてくる。
男は最後まで聞いた。それから布の下の肩をわずかに動かして、笑おうとして、痛みで止めた。
「……返事は、あとでいい」
「取りに戻ります。何日でも」
もう一通の宛先は、機屋の一家だった。
「逃げたよ」と婆が言った。「山向こうの、嫁の在所を頼って。夜のうちに、子どもらだけでも、って」
死んだのではない。ただ、ここにいない。少年は手紙を荷袋に戻した。
『届け先が、変わっただけ』
(経路を再計算します。山向こうの集落まで、およそ二日)
それでいい。宛先が生きているなら、手紙はまだ手紙だ。
「隣の村は」少年は訊いた。「助けには」
「門を閉めた」
婆は、責める調子でもなく言った。
「次は自分らだと思ってる。……そりゃあ、そうだろうよ」
(施しに関する慣習の記録は、平時のものです。該当する規定が、見つかりません)
少年は黙って、荷袋の奥から粉の包みを出した。炭焼きの爺の栗はもうないが、粉挽きの親方の粉が、まだすこし残っている。婆の膝の横に置く。
「あんた、それ」
「重いので」
嘘だった。婆はそれ以上言わなかった。嘘の重さくらい、量れる目をしていた。
村を出るとき、少年は一度だけ振り返った。黒い梁。骨の色の空。結わえ直された納屋の戸。
誰がこの村を助けるのか、まだ誰も答えていない。
(次の集落まで、二刻)
『うん』
冬が、山の向こうまで来ている。
(第四話 了)