第四十九話

W A T A R I   N O   S H O N E N

夜、屋根を打つ雨の音で、一度目が覚めた。蒔いたばかりの畑のことを思い、それからまた眠った。朝の畑は土の色を深くして、畝の形は崩れていなかった。フィアハは戸口でそれを確かめてから、支度をした。

矢筒の矢を数えると、六本そろっていた。左の腕に革の切れを巻き、弓は弦を張らないまま背に負った。荷袋のいちばん上には、文を四通入れた。背負って歩くと、荷の上でかすかに紙の鳴る音がした。久しぶりに聞く音だった。

婆は土間で、藁縄をなっていた。

「峠下と、機屋を回ってきます」

婆は手を止めずに、頷いた。フィアハはすこし間を置いてから、続けた。

「……夏まで、ここにいようと、思います」

縄をなう手が、止まった。それから、また動き出した。

「そうか」

それだけだった。ただ、戸口を出るとき、うしろから声が来た。

「戻りは、いつじゃ」

「四日か、五日で」

婆は頷いて、縄に戻った。

誰も、なにも訊かない道を、これまで歩いてきた。戻る日を訊かれたのは、はじめてだった。フィアハは道に出てから、いま答えた数を、口の中で数えなおした。

畑の隅では、男が鍬の先で、畝のあいだの水の道を直していた。目が合うと、たがいに小さく頭を下げた。それで、発った。

峠下の村までは、半日の道だった。道は乾きはじめて、両側から春の草が伸びて、道を狭めていた。道ばたの田には、人が出て働いていた。冬に通ったときは、誰もいない道だった。

村に入ると、文の宛先は、覚えのある家だった。冬に文を読み上げて、藁沓をもらった、あの女房と子の家だった。文は、川下から来ていた。

文を差し出すと、女房は前掛けで手を拭いてから受け取った。表を見て、裏を見て、それからフィアハに戻した。

「……頼めるかい」

「はい」

土間の奥から子が出てきて、女房の腰のうしろについた。冬と、同じ場所だった。フィアハは戸口の明るいほうへ体を回して、読んだ。短い文だった。読み終えると、女房が言った。

「もういっぺん」

フィアハは、はじめから読んだ。二度目が終わると、女房は文を受け取って、字を、しばらく見ていた。それも、冬と同じだった。

家を出ると、戸口のわきの土に、棒で引いた線が、何本もならんでいた。ただの線もあった。そのなかにひとつ、ほとんど字になっているのがあった。

ふり返って探すまでもなかった。子が、棒を持って、ついて出てきていた。

フィアハはしゃがんで、そのほとんど字になっている形の、足りない一画を、指でさした。子は棒を握りなおして、その一画を書き足した。土の上の形が、字になった。

子は、できた字のとなりに、もう一度同じ形を書いた。二度目は、はじめから字だった。

どちらも、なにも言わなかった。フィアハは立ち上がって、道に戻った。指でさして、直させる。自分が教わってきた、そのやり方で教えた。

峠の登りにかかっても、脇腹はもう痛まなかった。いつから痛まなくなったのかは、思い出せなかった。

峠は、春の顔をしていた。冬に風で足止めされた峠小屋は、戸を開けると乾いた匂いがして、ただの通り道になっていた。あの晩、壁ごと鳴っていた風の音は、どこにもなかった。軒下に前の者の枝があり、それで湯を沸かして、朝、あたらしいのを立てて出た。

頂に立つと、来た方と行く方の、両方が見えた。焼けた村の谷は、春の色の底に沈んで、煙は見えなかった。見えなくても、あそこに家があり、畑があることは、もう知っていた。

下りの道の途中から、機の音が聞こえはじめた。音は、ひとつではなかった。集落の手前まで来ると音は太くなり、家々の軒下に、染めた糸が干してあった。

三通のうちの二通は、隣り合ったふたつの家に配った。どの家でも、受け取る手から、染めた糸のにおいがした。

残るひと通が、機屋あてだった。家の前に立つと、機の音がひとつやんで、女房が出てきた。文を渡すと、その場で封を切って、読んだ。読み終えると、もう一度、はじめから読んだ。この家に、読み上げはいらなかった。

「返事は、ありますか」

と、フィアハは訊いた。女房は文をたたんで、首を振った。

「急ぎの用じゃない。いるようなら、この次の折に頼む」

女房はそれから、フィアハの背の弓に、一度だけ目をやった。冬には、なかったものだった。弓のことは、訊かれなかった。

その晩は、機屋の隅に泊めてもらった。機の音は、暗くなってもしばらくつづいた。糸のにおいのなかで、音のやむのを聞いてから、眠った。

翌朝、出がけに、弓に弦を張った。帰りは、猟をしながら戻るつもりだった。荷は軽くなって、歩いても、もう紙の音はしなかった。

峠を越えて、下りにかかって間もなく、道の右手の薮の際に、兎がいた。

フィアハは足を止めた。風は、頂のほうから背中へ下りてきていた。兎のほうへは、流れていなかった。弓を肩からはずし、音を立てずに、矢をつがえた。距離は、的にしてきた藁の束より、ひとまわり遠かった。息を浅くして、放った。

矢は兎の上を越えて、薮の先へ消えた。兎は二歩はねて、また草に口を戻した。

(風が、上から出ています)

声が言った。猟のさなかに声がものを言うのは、はじめてだった。

フィアハは二の矢をつがえた。風に押されて伸びるぶん、こんどはねらいを下げた。放った。

兎が、転がった。

駆け寄ると、もう動かなかった。一の矢は、薮の先の草のなかに立っていた。抜いて、羽を確かめて、筒に戻した。六本は、六本のままだった。

その場で始末をして、内臓のいくらかは、山に残した。手を拭きながら、フィアハは言った。

『……いまの、風』

(はい。見えたままを、言いました)

『助かった』

(はい)

兎を腰に提げて、下りた。その晩は、峠下の手前、道ばたの木の下で火を焚いて眠った。

あくる朝は、峠下の村に寄らず、道なりに過ぎた。あの戸口のわきの土に字が残っているかどうかは、道からは見えなかった。

四日目の昼すぎに、谷が見えた。煙がひとすじ、まっすぐに立っていた。行きの頂から見えなかったものが、帰りには見えていた。フィアハは煙を見ながら、下りた。

畑のなかに婆の腰があり、畝のあいだに男の背中があった。

婆が顔を上げた。フィアハが戸口の前まで来ると、鍬を土に立てて、言った。

「……四日じゃったの」

「はい」

数えられていた。旅のあいだ、婆のほうでも、日を数えていたのだった。戻る日を数えて待つ者のところへ戻ったのは、これがはじめてだった。

フィアハは腰から兎をはずして、差し出した。婆は受け取り、手のなかで重さを量ってから、なにも言わずに土間へ持って入った。

兎の皮は、晩めしの前に、男と剥いだ。納屋に手ごろな木があったので、猟師の家で見たとおりの形に枠を組み、皮を張った。男は組み上がった枠を一度ゆすって、確かめてから、納屋の壁に掛けた。

晩の膳に、兎の椀が出た。三人で食った。獲ったのが誰かは、誰も言わなかった。

めしのあと、明るさの残っているうちに、ひとりで畑を見にいった。畝は、朝と同じ顔に見えた。しゃがんで目を近づけると、菜を蒔いた筋のひとところで、土が、わずかに持ち上がっていた。

まだ、緑は見えなかった。土が、下から押されていた。

(第四十九話 了)

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