第四十七話
夜明けに火の始末をして、発った。朝の道は、下りだった。歩くほどに、川の音が遠くなった。空気から、雪解けの冷たさが抜けはじめていた。
昼まえ、道の先に人影が見えた。足が、止まりかけた。薪を負った、村の者だった。すれちがうとき、会釈だけが行き来した。
次の人影には、止まらなかった。
道に、踏み固めた跡が戻ってきた。畑で、人が土を起こしていた。起こした土の匂いが、道まで届いた。夕方、村に着いた。北へ行くとき、最後に泊まった村だった。十ばかりの屋根に、夕餉の煙が立っていた。
婆の家の戸は、開いていた。土間で、婆が漬物の樽を洗っていた。戸口の影に気づいて、顔を上げた。フィアハを見て、なにも言わなかった。目は、ゆっくりと上から下まで動いて、顔に戻った。覚えている顔だった。
「妹さんの、言伝です」
フィアハは、戸口で言った。婆の手が、水の中で止まった。
「——こっちも、漬けた、と」
婆は、しばらく動かなかった。濡れた手は、樽のふちに置かれたままだった。それから前掛けで手を拭き、奥へ入った。重石をどける音がして、重い蓋の音がつづいた。
囲炉裏の火が搔き立てられ、鍋が掛けられた。座れ、とは言われなかった。板の間に鉢が置かれたことが、そうだった。
鉢の漬物は、高く盛られていた。ひと冬を越えた、深い色をしていた。飯と、汁も出た。フィアハが食うあいだ、婆は火のむこうに座って、黙って見ていた。見ているあいだ、婆の手は、なにもしていなかった。
その晩は、板の間の隅を借りた。樽を洗う音が、しばらく続いていた。春の漬け込みの、支度らしかった。
*
朝、発つとき、婆が竹の皮の包みをよこした。飯と、漬物だった。道の分だった。受け取って、頭を下げた。婆は、もう樽のほうを向いていた。
道は、川に沿って下った。川幅は下るほどに広がって、流れはゆるくなった。往路に泊まった祠の軒を、一晩借りた。軒の下に、前の者の残した枝があった。それで火を焚き、朝、あたらしいのを立てて出た。翌日の昼、川下の町に入った。
人の声が、多かった。荷車の音、舟着き場の呼び声、店先の話し声。はじめは、音の多さに耳が構えた。町を歩くうちに、耳がほどけた。
舟着き場には、舟が増えていた。冬に二艘だったところに、五艘が並んで、荷を積んでいた。積まれているのは、俵と、挽いたばかりの板だった。
呉服商の店は、覚えのある場所にあった。店先に反物が出て、奥から、布を巻き直す音がしていた。帳場の主人は、冬と同じ場所にいた。戸口のフィアハを見ると、筆を置いた。目が、上から下までゆっくり動いた。弓のところで、すこし止まった。
「……戻ったか」
「はい」
フィアハは、荷を下ろして、頭を下げた。
「届きました」
主人は、すこしのあいだ、なにも言わなかった。筆を、取り直しもしなかった。それから、頷いた。
「冬は、越せたか」
「はい。北で、雪解けを待ちました」
「そうか。……長い道だったな」
その晩は、主人の家の台所の板の間に、膳が出た。魚と、白い飯だった。白い飯は、いつぶりか、思い出せなかった。椀は、二杯になった。
膳のあと、主人が言った。
「山向きの文が、たまっている。雪のあいだ、運び手がなかった」
「焼けた村の方なら、行きます」
「助かる」
帳場から、文の箱が持ち出された。冬のあいだ止まっていた文が、宛先ごとに寝かせてあった。主人はその中から、五通をえり分けた。
フィアハは、その場で宛先を順にあらためた。機屋の集落がみっつ、峠下の村がひとつ、焼けた村がひとつだった。主人は、あらため終わるのを黙って待った。急かさなかった。
「急ぎのものは、ない」
と、主人は言った。引受の銭は、紙に包んで渡された。
束は、荷袋のいちばん上に入った。
夜、手代が言った。
「今夜も、蔵の脇でいいか」
「はい」
冬のはじめと、同じ言い方だった。
蔵の脇の三畳の夜具は、覚えているとおりに厚かった。荷袋を枕もとに置いた。いちばん上に、文の束があった。身じろぎすると、紙のこすれる音がした。
『おやすみ』
(はい)
町の音の中で、眠った。
(第四十七話 了)