第四十七話

W A T A R I   N O   S H O N E N

夜明けに火の始末をして、発った。朝の道は、下りだった。歩くほどに、川の音が遠くなった。空気から、雪解けの冷たさが抜けはじめていた。

昼まえ、道の先に人影が見えた。足が、止まりかけた。薪を負った、村の者だった。すれちがうとき、会釈だけが行き来した。

次の人影には、止まらなかった。

道に、踏み固めた跡が戻ってきた。畑で、人が土を起こしていた。起こした土の匂いが、道まで届いた。夕方、村に着いた。北へ行くとき、最後に泊まった村だった。十ばかりの屋根に、夕餉の煙が立っていた。

婆の家の戸は、開いていた。土間で、婆が漬物の樽を洗っていた。戸口の影に気づいて、顔を上げた。フィアハを見て、なにも言わなかった。目は、ゆっくりと上から下まで動いて、顔に戻った。覚えている顔だった。

「妹さんの、言伝です」

フィアハは、戸口で言った。婆の手が、水の中で止まった。

「——こっちも、漬けた、と」

婆は、しばらく動かなかった。濡れた手は、樽のふちに置かれたままだった。それから前掛けで手を拭き、奥へ入った。重石をどける音がして、重い蓋の音がつづいた。

囲炉裏の火が搔き立てられ、鍋が掛けられた。座れ、とは言われなかった。板の間に鉢が置かれたことが、そうだった。

鉢の漬物は、高く盛られていた。ひと冬を越えた、深い色をしていた。飯と、汁も出た。フィアハが食うあいだ、婆は火のむこうに座って、黙って見ていた。見ているあいだ、婆の手は、なにもしていなかった。

その晩は、板の間の隅を借りた。樽を洗う音が、しばらく続いていた。春の漬け込みの、支度らしかった。

朝、発つとき、婆が竹の皮の包みをよこした。飯と、漬物だった。道の分だった。受け取って、頭を下げた。婆は、もう樽のほうを向いていた。

道は、川に沿って下った。川幅は下るほどに広がって、流れはゆるくなった。往路に泊まった祠の軒を、一晩借りた。軒の下に、前の者の残した枝があった。それで火を焚き、朝、あたらしいのを立てて出た。翌日の昼、川下の町に入った。

人の声が、多かった。荷車の音、舟着き場の呼び声、店先の話し声。はじめは、音の多さに耳が構えた。町を歩くうちに、耳がほどけた。

舟着き場には、舟が増えていた。冬に二艘だったところに、五艘が並んで、荷を積んでいた。積まれているのは、俵と、挽いたばかりの板だった。

呉服商の店は、覚えのある場所にあった。店先に反物が出て、奥から、布を巻き直す音がしていた。帳場の主人は、冬と同じ場所にいた。戸口のフィアハを見ると、筆を置いた。目が、上から下までゆっくり動いた。弓のところで、すこし止まった。

「……戻ったか」

「はい」

フィアハは、荷を下ろして、頭を下げた。

「届きました」

主人は、すこしのあいだ、なにも言わなかった。筆を、取り直しもしなかった。それから、頷いた。

「冬は、越せたか」

「はい。北で、雪解けを待ちました」

「そうか。……長い道だったな」

その晩は、主人の家の台所の板の間に、膳が出た。魚と、白い飯だった。白い飯は、いつぶりか、思い出せなかった。椀は、二杯になった。

膳のあと、主人が言った。

「山向きの文が、たまっている。雪のあいだ、運び手がなかった」

「焼けた村の方なら、行きます」

「助かる」

帳場から、文の箱が持ち出された。冬のあいだ止まっていた文が、宛先ごとに寝かせてあった。主人はその中から、五通をえり分けた。

フィアハは、その場で宛先を順にあらためた。機屋の集落がみっつ、峠下の村がひとつ、焼けた村がひとつだった。主人は、あらため終わるのを黙って待った。急かさなかった。

「急ぎのものは、ない」

と、主人は言った。引受の銭は、紙に包んで渡された。

束は、荷袋のいちばん上に入った。

夜、手代が言った。

「今夜も、蔵の脇でいいか」

「はい」

冬のはじめと、同じ言い方だった。

蔵の脇の三畳の夜具は、覚えているとおりに厚かった。荷袋を枕もとに置いた。いちばん上に、文の束があった。身じろぎすると、紙のこすれる音がした。

『おやすみ』

(はい)

町の音の中で、眠った。

(第四十七話 了)

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