第四十六話
岸を離れると、道は林へ下っていった。水音が、すこしずつ薄くなった。
(人です)
声が、言った。足が、止まった。
道の先の木の間から、男がひとり、出てきた。横の薮から、もうひとり。ふり返ると、来た道の上にも、ひとり立っていた。うしろは、渡ってきた川だった。
体が、川側へ半歩、動いた。そちらは、白い水だった。
三人とも、急がなかった。渡ってくる者をここで待つことに、慣れた立ち方だった。
先の男が、近づいてきた。手に、山刀があった。抜き身のまま、下げていた。
弓を、背から引き抜かれた。矢筒も、取られた。肩を押されて、道の脇に座らされた。
荷袋が、逆さにあけられた。干し肉。凍み餅。塩の袋。革の切れ。土の上に、散った。
言伝は、散らなかった。
干し肉と塩が拾われて、男たちの袋へ移った。凍み餅は、残された。
「銭は」
「……ありません」
うしろで、舌を打つ音がした。
先の男が、フィアハを見下ろした。
「なんだ、おまえは」
「……渡りです」
うしろの男が、なにか言いかけた。先の男が片手を上げて、止めた。
口の中が、乾いていた。
男は、しばらく黙っていた。山刀の先が、ゆっくり下がった。それから、懐に手を入れた。
出てきたのは、布の包みだった。片手でほどくと、中は手紙だった。何度もたたまれて、折り目が白く毛羽立っていた。
男はそれを、突き出した。
「読めるのか、おまえ」
フィアハは、受け取った。紙は、乾いた草の匂いがした。ひらくとき、折り目が切れないように、時間をかけた。座ったまま、日のある方へ、すこし体を回した。
手が、震えていた。
字は、代筆屋の字だった。読める字だった。はじめの一語は、男の名らしかった。
声に出して、読んだ。はじめの声は、掠れた。読み屋の声になるまで、一語かかった。名を読まれて、男の肩が、すこし動いた。
「——かあは、達者でいる。目が、すこし遠くなっただけだ。おまえの植えた栗に、実がついた」
紙が、手の中で細かく鳴った。手は震えたままで、声は、つかえなかった。男たちは、動かなかった。
「峠の雪がとけたら、いちど顔を見せておくれ。帰れないなら、それでもいい。達者で、いておくれ」
読み終わっても、だれも動かなかった。川の音だけが、していた。フィアハは、男の顔を見ないようにした。
男が、手を出した。手紙をたたんで、返した。
男は手紙を、長いこと見ていた。読めない字を、見ていた。それから、たたみ直して、布に包み、懐に戻した。
弓と矢筒が、足もとに、放るように置かれた。
「行け」
フィアハは、散った荷を拾った。凍み餅は、土のついたまま袋へ戻した。革の切れも、拾った。立ち上がって、弓を負った。
男たちのあいだを、歩いて通った。走りたい足を、歩かせた。ふり返らなかった。
林を抜けるまで、足は止まらなかった。
*
日が暮れて、はじめて足が止まった。林の外れで火を焚いた。凍み餅の土を払い、湯でやわらかくして食った。塩は、なかった。
火にかざした手は、もう震えていなかった。
『あの文、覚えてる?』
(はい。ぜんぶ)
『あの人の名前も』
(はい。あります)
『……おまえのは』
(ありません)
フィアハは、それ以上訊かなかった。火が小さくなるまで、起きていた。
眠りは、来た。
(第四十六話 了)