第四十四話
藁の的が、真ん中から痩せてきたころだった。罠を見て回る朝、男が土間の弓を顎で指した。持って出ろ、ということだった。出がけに、弦を張った。
山に入ると、男の歩みから音が消えた。踏むところは、もう見なくてもわかった。弓を負って山を歩くのは、はじめてだった。冬には、手ぶらで男のうしろをついて歩いた道だった。
灌木の帯の手前で、男が足を止めた。下草の、土の掘れたあたりを長く見て、灌木の際を顎で指した。それから、低く呼んだ。
「フィアハ」
名で呼ばれて、位置に付いた。
矢をつがえて、待った。風は、向こうから来ていた。薮の葉が裏を返して、白く光った。待つあいだ、男はいちども身じろぎしなかった。足の下から、土の冷えが上がってきた。
男が、薮の反対側を棒で叩いた。兎が、出た。二度はねて、止まった。
弦が、鳴った。
兎は、転がった。手のひらには、なにも伝わらなかった。
駆け寄ると、まだ動いていた。短く、終えた。
男は兎を拾って、当たりどころを一度だけ見た。それから、なにも言わずに、フィアハに持たせた。帰りは、罠をふたつ回って、家に下りた。
始末は、覚えた手順のとおりにした。内臓のいくらかは、山に残した。鳥が、もう鳴いていた。皮は、教わった深さで剥いで、枠に張った。
晩の膳に、肉の椀が増えた。獲ったのが誰かは、誰も言わなかった。
*
その日から、罠の見回りには弓を持って出た。射る折は、もう来なかった。獲物は、罠のほうに掛かった。
発つ日は、自分で決めて、前の晩に告げた。男は、頷いただけだった。その晩の膳は、ふだんと同じだった。
傷には、まだ布を当てていた。朝の最初の何歩かは、もう痛まなかった。
朝、置いてあった肉と塩の残りを、荷袋に戻した。男が弓を持ってきた。練習に使った、あの小さいほうだった。矢筒に、矢が六本入っていた。羽の新しいのが、混じっていた。返すつもりで受け取ると、男はもう背を向けていた。そのまま自分の弓を負い、山へ出ていった。軒下に、兎の皮が、枠に張られたまま掛かっていた。乾くのは、発ったあとになる。
女房が、包みをよこした。干し肉と、凍み餅だった。持ち重りがした。それから、言った。
「……フィア」
女房の声を、はじめて聞いた。
弓と包みとで、両手はふさがっていた。フィアハは、頭を深く下げた。しばらく、そのままでいた。
境まで、犬がついてきた。冬と同じ場所で止まって、座った。一度だけふり返ると、犬は座ったまま、動かずにいた。それから、道へ出た。
谷を下る道は、来たときより乾いていた。弓は、背にあった。歩くたび荷と擦れて、小さく音がした。まだ、馴染まない重さだった。
『フィア、って呼ばれた』
(はい。聞いていました。——短いほうも、同じ名として記録します)
南へ、下りはじめた。
(第四十四話 了)