第四十話

W A T A R I   N O   S H O N E N

昼、道は沢に沿って下っていた。水は多く、音も多かった。雪解けの水が、岩を白く噛んでいた。話しかけられても、聞こえない音だった。

(人が、います)

声が、言った。訊いていないのに、言った。報せは、はじめてだった。

振り向く前に、山側の薮が鳴った。男がひとり、出てきた。手に、山刀があった。もうひとり、道の先にいた。挟まれていた。

フィアハは、沢側へ跳んだ。

岩の頭を伝って、下流へ走った。水音が、追う足音を消した。消されているのは、こちらの耳も同じだった。谷の落ち方は、覚えていた。この先で沢が細り、道が二手に分かれる。上の道は、崖で行き止まりに見えて、抜けられる。来たときに、覚えた道だった。

上の道へ走った。ひとりが、ついてきた。もうひとりの足音は、水音の向こうで消えた。

崖の口で、腕をつかまれた。

引き倒される、と体が知った。体が、先に動いた。腰の小刀が、手にあった。

男が、のしかかってきた。小刀が、入った。手のひらに、重さと熱が伝わった。

男は、すこし動いて、動かなくなった。

フィアハは、立っていた。呼吸だけが、速かった。

男が、そこにあった。肉のかたまりに、見えた。鹿とは、ちがった。なにがちがうのかは、わからなかった。襲われたからか。相手が、人だからか。わかるまえに、目だけが見ていた。男の髪が、この土地の色とすこしちがった。そう見えただけかも、しれなかった。

耳が、水音を取り戻した。もうひとりの足音は、もう、どこにもなかった。

左の脇腹が、熱かった。着物が切れて、血が出ていた。いつ切られたのか、思い出せなかった。深くは、なかった。

(傷を、洗ってください。水は、流れているものを)

声が、言った。訊くまえに、言った。その日、二度目だった。

フィアハは、沢へ下りて、傷を洗った。それから、手を洗った。長く、洗った。

歩き出した。荷は、背にあった。肉も塩も、無事だった。守ったのではなかった。下ろす間が、なかっただけだった。

晩は、火を焚かなかった。焚けなかった。手が、それをしなかった。

暗くなってから、震えが来た。寒さの震えとは、ちがうものだった。昼に来なかったものが、まとめて来た。恐怖が、あとから追いついてくるのだった。その場では、なにも感じなかった。感じなかったのではなく、間に合わなかっただけだった。

男は、動かなくなった。この手で、そうした。鹿とはちがう重さが、いまごろ、のしかかってきた。

フィアハは、手のひらを見た。洗ったのに、まだあたたかい気がした。

(体温は、残っていません。あたたかいのは、手のほうです)

鹿の晩は、その言葉で眠れた。今夜は、ちがった。あたたかいのが手のほうであることが、こわかった。

震えは、止まらなかった。フィアハは、体を丸くした。

声が、言った。

(今夜は、見ています)

頼んでいなかった。頼むより、先だった。

眠りは、来なかった。

(第四十話 了)

感想を送る

読んでくださって、ありがとうございます。
感想は作者に直接届きます(サイトには公開されません)。お名前の記入は任意です。