第三十九話
北東の里が、山のひだの向こうに隠れて、それきりになった。
道は、見覚えのある道だった。来たときは、雪を踏んで歩いた。いまは、ところどころ雪と土が混ざって、泥になっていた。同じ道が、違う顔をしていた。
境まで送る犬は、いない。先に歩く男も、いない。ひとりの道は、来たときと同じで、来たときと違っていた。荷は軽く、干した肉と塩が、糧の芯だった。
日が、長くなっていた。朝早く発てば、夕方までにふた山を越えられた。歩ける時間が、伸びるのだった。芽の出た枝で、山の色が下から変わりはじめていた。
沢の水は多かった。それでも岩の頭が出ていて、渡れた。冬に浅かった場所が深く、深かった場所が浅くなっていた。
煮るのは、晩だった。歩く昼に、火は焚かない。旅の決まりは、体に残っていた。
夕方の岩陰の口に、枝が一本、立ててあった。渡りの習いの枝だった。来るときに、自分で立てた枝だった。その晩はそこで泊まり、朝、枝はそのままにして発った。つぎの誰かの分だった。
*
曲がり道の口で、フィアハは足を止めた。刻みが、ないのだった。
来たときは、曲がる手前の木に、刻みがあった。三つで、半日。それに従って、曲がった。いまは、どの木にもなかった。間違えれば、半日を失う道だった。
フィアハは、道の面を見た。谷の落ち方を見た。風の通りを、確かめた。来たとき、この曲がりで風が変わった覚えがあった。それから、覚えのほうで曲がった。
曲がった先の木に、刻みがあった。上から三つ、深さの違う切り込みだった。
刻みは、北へ行く者のために付いている。帰る者には、後ろ向きだった。来るときは、刻みが先に教えた。帰りは、曲がってから、合っていたと分かるのだった。
刻みが、後ろから付いてくるようだった。
声は、なにも言わなかった。訊かなかったからだった。
*
昼、縁の家の集落が見えた。道は、里の縁を通って、それきりだった。垣の内から、煮炊きの煙が立っていた。窓に皮が張ってあるのが、遠目に見えた。張り方に、見覚えがあった。
足は、止めなかった。届けるものが、ないのだった。離れるまで、煙の匂いが、すこしついてきた。
*
晩の鍋は、干し肉を戻した湯に、塩だった。セタンタの肉に、爺さまの塩だった。ひと冬の、ふたりの手が、ひとつの椀に入るのだった。椀を洗う沢の水が、もう指に痛くなかった。
夜、火のそばで、フィアハは声に言った。
『きょうは、迷わなかった』
(はい。見ていました)
『刻みより、先に曲がった』
(はい。記録より、先でした)
体の覚えが、記録より先に動いた。そういう日だった。
『おやすみ』
(はい)
火が小さくなって、水の音が近くなった。水の音と、土の匂いのする夜だった。春の夜は、音が多いのに、静かだった。
眠りは、すぐに来た。
(第三十九話 了)