第三十八話
冬のあいだ、道は雪の下にあった。いまは土の道が、先までつながっていた。沢の荒かった音は、ならされて低くなった。日陰にだけ、雪が残った。山の鳥の声が、ふえていた。
夕餉は、鹿の干し肉を戻した鍋だった。火の前で、フィアハは言った。
「あした、発ちます」
セタンタは、椀から顔を上げなかった。ひとつ頷いて、それきりだった。訊かない男は、引き止めもしないのだった。そのあとで、フィアハの椀に注ぎ足した。
その晩の椀には、肉が多く入っていた。分け方が、言っていた。
椀が空くと、セタンタは火の前で、荷の結びをひとつゆっくり結んで見せた。見せるための遅さだった。それが、最後の伝承だった。
別れの言葉を、フィアハは知らなかった。渡りの暮らしには、覚える場所がなかった。なくても済む家に、ひと冬いた。それで足りた。
火が埋められる前に、家の中を見た。壁の皮。大きい枠。矢先の箱。手が場所を覚えた、ひと冬だった。名をもらった、炉端だった。
犬が、戸口で先に寝ていた。
*
朝は、暗いうちにセタンタが出た。いつもの山の支度だった。戸口で、犬の頭に手を短く置いた。それだけで、出ていった。前の晩の椀が、この男の別れだった。
フィアハは火の始末をして、借りたものを元の場所に戻し、戸を閉めた。音は、立たなかった。ひと冬で、開け方を覚えた戸だった。炉の熾だけが、暗い家の中で赤かった。荷には、干した肉がひと束、足されていた。いつ足されたのかは、分からなかった。
犬が、境まで送った。いつもの場所に、座った。
フィアハは、一度だけふり返った。人には、ふり返らない渡し方を教わった。犬は、その外にいた。座って、耳を立てていた。それを見てから、下りはじめた。
下りの途中で、背中の上のほうから、口笛がひとつ聞こえた。短い音だった。雪の日に、吹かれなかった音だった。石を鳴らして、犬が斜面を駆け上がっていった。呼ばれたのは犬だった。行け、と言われたのは、フィアハだった。
里の家で、朝の鍋を、爺さまとふたりで空けた。ふたつぶんの、最後だった。
爺さまは、旅の袋に壺の塩をひと掴み、足してよこした。ひと冬、尾根と里を通った塩だった。足りないとも、多いとも、言わなかった。
戸口を出るとき、うしろから呼ばれた。
「フィアハ」
おくれずに、ふり返った。爺さまは、それだけだった。用は、なかった。名を、いちど呼んだだけだった。
頷いて、フィアハは歩き出した。
里を出ると、道は南西へ下っていた。届けるものは、なかった。台帳は、空のままだった。それでも行く先のある道を、歩いた。渡りに、戻るのだった。ちがっているのは、呼ばれる名があることだった。
『帰る』
(はい。記録します)
(道のりは——)
『いい。数えない』
(はい)
『冬の記録は』
(残っています。ぜんぶ)
耳は、しばらく山の側を聞いていた。歩くほどに、沢の音が遠くなった。かわりに、べつの水の音が近づいては、離れた。春の道は、水の音ばかりだった。
フィアハは、歩いていた。
(第三十八話 了)