第三十七話
冬のいちばん深いころは、朝の息が睫毛に凍った。斧の音が、硬く遠くまで届いた。その底は、いつのまにか過ぎていた。
夜明けが、すこしずつ早くなった。罠を掛ける場所は、日ごとに山の上へ動いた。雪の際が、退がっていくのだった。フィアハはそれを追って歩いた。大きい枠には皮が張られ、乾くと外され、つぎの皮が張られた。納屋の壁に、乾いた皮が立てて並んだ。数えなかったが、列は伸びていた。
セタンタは、もうフィアハの手を見なかった。見られなくなった手のひらは、厚くなっていた。分かれ道で顎を出すことも減って、ただ先に歩いた。犬は朝の迎えの場所を、日ごとに里へ寄せた。夕の送りは、変わらずに境までだった。
足あとの読みは、雪がゆるむと変わった。しめった雪は、深く沈むのだった。教わることは、まだ尽きなかった。
塩の往復が、できていた。市の塩をセタンタが分け、フィアハが里へ下ろした。分け方は、最初の晩のままだった。荷は、どちらも軽かったが、道はもう、荷の通う道になっていた。
ある日の土間で、フィアハは塩の袋を渡した。爺さまは受けて、鍋の脇の壺へ移した。ふたつぶんの鍋に、同じ塩が入るのだった。
渡すものが、袋のほかに、もうひとつあった。フィアハは戸口で背を向けて、それから言った。
「……フィアハと、いいます」
爺さまは、訊き返さなかった。壺の蓋の閉まる音が、返事のかわりだった。
あたらしい名を、自分の口から渡すのは、はじめてだった。渡し方は、教わった形のままだった。ふり返らずに、渡すのだった。預かりものなら、渡せば手が空く。名は、渡しても、へらなかった。
*
つぎに里へ下りた日、戸口の外から呼ばれた。
「フィアハ」
一拍おくれて、ふり返った。呼ばれたのが自分だと、体が知るまでに、その一拍がかかった。爺さまは、薪の束を顎で指しただけだった。フィアハは薪を負って、土間へ運んだ。それだけの用だった。
つぎに呼ばれたときは、おくれなかった。
夜、板の間で、フィアハは声に言った。
『里でも、フィアハになった』
(はい。聞いていました)
『記録は』
(ひとつのままです。呼ぶ人が、ふえただけです)
フィアハは、火に枝をひとつ足した。
*
雪は、山の上へ引いていった。罠の場所が、それを追った。橇の道は日なたからゆるんで、朝のうちだけの道になった。橇は、元の場所へ戻った。冬のあいだ、いちばん働いた道具だった。納屋の棚は、もう下がらなかった。軒の下に、水の落ちる筋ができた。里の屋根から、雪下ろしの音が消えた。
夕、犬に送られて下る道で、フィアハは足を止めた。
沢が、鳴っていた。氷の下で細っていた音が、太くなって戻っていた。冬のはじめに聞いた音より、まだ荒かった。雪だった水が、通っていく音だった。
犬が、いつもの場所に座った。送りの境は、変わらなかった。音だけが、変わっていた。耳が、音のほうへ立っていた。
フィアハは、しばらく立って、聞いていた。
(第三十七話 了)