第三十六話
犬が先に着いた。雪を蹴って駆け上がり、ひとつ跳ねて、それから横に並んで歩いた。セタンタの手が、犬の頭に短く置かれた。それだけで、犬はもう落ち着いていた。
少年は坂を下りて、荷を受け取った。覚えのない匂いがした。よその里の、煙の匂いだった。背負子は軽くなっていたが、横に提げた袋が重かった。塩と、鉄の矢先と、あたらしい縄だった。ふたりで分けて負うと、一度で運び上がれた。市の話を、少年は訊かなかった。セタンタも、留守の話を訊かなかった。訊かないふたりの、家だった。
セタンタは、軒で足を止めた。
いちばん大きい枠に、皮が張ってあった。近づいて、指の背で押した。張りを確かめ、それから縁の留めを見た。ひとつ多い結びを、長いこと見ていた。北風の当たる面を、手のひらでひと撫でした。屋根の雪が下ろされていることは、来る道の遠くから見えていたはずだった。薪の列はすこし低くなり、割った玉がその端に積み足されていた。橇も、納屋の元の場所に戻っていた。なにも言わずに、戸を開けた。
炉の火は、燃えていた。預かった火は、灰にならずに続いていた。セタンタは火の前にしゃがんで、手をかざした。かざしたまま、しばらく動かなかった。
夕餉は、鹿の肉だった。少年の獲った鹿を、セタンタが食った。市の塩は、粒の角が立っていた。だれも、なにも言わなかった。椀が空くと、少年が注いだ。塩のひと袋が、里の爺さまへ、と分けて置いてあった。言葉はなかったが、分け方が言っていた。
日が落ちて、その晩も尾根に泊まることになった。留守は明けていたが、荷ほどきが長びいて、帰りそびれた形だった。
*
火が熾になるころ、セタンタが枝を一本、足した。
「……名は」
訊かない男が、訊いた。
少年は、火を見た。名を訊かれたのが、いつぶりのことか、思い出せなかった。答えるまでに、息をふたつ使った。
「霜月の九日、です」
名ではなかった。育った先の帳面に、来た日がそう書かれ、それがそのまま呼びになった。番号ではなかった。それだけの名だった。
セタンタは、訊き返さなかった。繰り返しもしなかった。火が、小さく爆ぜた。
「フィアハだ」
火に向かって、言った。渡し方は、名乗りの日と同じだった。理由は言わない。意味も言わない。置くように、渡すのだった。
フィアハ。胸の内で、一度なぞった。知らない音なのに、呼ばれた音だった。収まりのいい音だった。口から聞く名は、これで二つ目だった。
犬が、頭を上げていた。
「……はい」
返事は、それだけにした。受け取りました、と言う代わりに、フィアハは火に枝をひとつ足した。セタンタは、もう火を見ていなかった。壁ぎわで、寝る支度を始めていた。
*
夜、板の間で、フィアハは声に言った。
『フィアハ、だそうだ』
(はい。記録します)
『帳面の日付も、残るのか』
(はい。記録は、消えません)
『……それでいい』
捨てるのではなかった。荷のいちばん底に、置いておくのだった。底にあるものは、なくならない。上に、あたらしいものが載るだけだった。
あしたも、夜明けに山へ入る。することは、なにも変わらなかった。呼ばれる名が、あたらしいだけだった。
熾の色が、深くなっていた。外で、風が尾根を渡っていった。犬の寝息が、炉の横で長かった。
フィアハは、目を閉じた。
(第三十六話 了)