第三十五話
支度は、前の日から見えていた。納屋から皮の束が下ろされ、干し肉が藁に包まれて、背負子の横に並んだ。少年はなにも訊かず、結わえる手伝いをした。皮の束は、この冬に増えたぶんだけ厚かった。自分の獲った兎の皮も、そのなかにあった。峠の向こうに、冬の市が立つ。それだけは、いつか爺さまから聞いていた。
朝、セタンタは暗いうちに背負子を負った。戸口で犬が立ちかけた。一度だけ、犬を見た。犬は、座った。
口笛は、鳴らなかった。
セタンタは峠の側へ、雪を踏んで消えた。炉の火は、落とされていなかった。犬と、火が、残った。
*
はじめの夕、いちど里へ下りて、爺さまに幾日かの留守を告げた。爺さまはうなずいて、干し芋をひと包み、持たせた。尾根の家で寝るのは、はじめてだった。梁が、夜のあいだに幾度か低く鳴った。知らない家の、知らない音だった。犬は炉の横に伏せて、少年と火のあいだに長々と体を置いた。家のものには、触らなかった。使うのは炉と、鍋と、寝るための板の間だけにした。
罠は、沢側も奥側も、ぜんぶ回った。朝に出て、昼をまたいで、夕に戻る。道は往きと帰りで一本になっていたから、迷う足はもうなかった。奥のいちばん深いところの罠は、綱が腕ほども太い。掛け方は、セタンタの手で見て覚えていた。
朝ごとに、灰をかいて熾を起こした。屋根に、細く煙を立てた。預かった火を、絶やさないこと。それが留守の要だった。
夜、火の前で、少年は言った。
『何日で戻るとは、聞かなかった』
(はい。——数えますか)
『……いや。数えない』
(はい)
数えない旅を、してきた。数えられない冬を、しているのだった。留守は、その続きだった。預かりものの荷は、ずっと空のままだった。いま預かっているものは、袋に入らない形をしていた。火と、犬と、家だった。
*
風が変わった晩、犬が戸のほうへ頭を上げた。朝には、吹いていた。行かない、と少年は決めた。爺さまの首の振り方を思い出しながら、自分で決めた。止み間に屋根へ上がって雪を下ろし、薪を運び、犬の飯を炊いた。罠のことは思ったが、思うだけにした。吹く日に山へ入らないのも、教わりのうちだった。犬は一日、戸の内から雪を見ていた。
吹雪は、ひと晩とひと日で抜けた。
翌朝、奥の罠に鹿が掛かっていた。
まだ、生きていた。少年は足を止めて、息をひとつ置いた。猟師の家でも、セタンタの横でも、終わらせるのは自分の手ではなかった。足場を踏み固めて、近づいて、教わったとおりに押さえ、短く、終えた。手順が手に残っていて、手順のとおりに動くあいだ、迷いの入る隙はなかった。
血は二筆、雪に伸びて、それきりだった。内臓のひとつは、雪の上に置いた。
体は、納屋の橇で二度に分けて運んだ。綱が肩に食い込んで、途中で幾度か休んだ。下ろし終えると、日が落ちかけていた。皮は、軒のいちばん大きい枠に張った。少年の枠よりふたまわり大きい枠は、張りの力もふたまわり要った。ひと張りして、たわみを見て、張り直した。手のひらが熱かった。
その晩は、締めだけだった。
『今夜も』
(はい)
犬が、炉の横で長い息をついた。少年も、ついた。
*
幾日めかの昼、罠から戻ると、犬が先に足を止めた。耳が立って、尾根の道のほうへ向いた。
人影が、峠の側から戻ってきた。背負子は行きより痩せて、代わりに横が膨らんでいた。
犬は、もう走り出していた。
(第三十五話 了)