第三十三話
朝はまだ来ていなかった。少年は暗いうちに爺さまの家を出た。戸を閉めるとき、囲炉裏の熾がひとつ、明るくなった。
雪明かりで道は見えた。きのう自分が下りた足あとが残っていて、それを逆に踏んで登った。下りの足は迷っていなかったから、登りもまっすぐだった。息が白く、まつげに凍りついた。里では、雪搔きの音がまだ始まっていなかった。
尾根の下で、雪を踏む音がひとつ増えた。犬だった。吠えなかった。二歩手前まで来て匂いをたしかめると、先に立って歩き出した。迎えなのか、ただ帰るところなのか、分からなかった。分からないまま、あとを追った。
家の前で、セタンタは軒下の枠に皮を張っていた。少年を見ても手を止めず、顎で壁ぎわの背負い籠を指した。それが、はじまりだった。
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罠は尾根の裏に回してあった。雪の中を、セタンタはひとことも言わずに歩いた。ただ、少年の見ている前で、手がゆっくりになるときがあった。留めの結びを解くとき。掛け直すとき。撓めた枝の高さを直すとき。見せるための遅さだと、途中から分かった。猟師の家では、言葉で教わった。ここでは、手で教わるのだった。
ひとつ多い留めの結びは、外すのにもひと手間多かった。そのかわり、雪の重みで罠がずれても、そこだけは残った。なるほど、とは言わなかった。訊かない作法は、教わる側にもあるのだった。
五つ回って、掛かっていたのは兎の一羽だけだった。空の罠に、セタンタはなにも言わず、少年も、もう落胆はしなかった。始末は少年がした。終わると、内臓のひとつを雪の上に置いた。山の習いは、この尾根でも同じだった。セタンタの目がそれを見て、少年の手に戻った。
昼は、家の中で食った。鍋は肉だけで、骨から出た脂が面に丸く浮いていた。犬は戸口の内に伏せて、鍋ではなく、ふたりの手もとを見ていた。だれも、しゃべらなかった。木の匙が椀に当たる音と、軒の枠が風に鳴る音だけがした。
午後は、納屋の脇の玉を割った。頼まれたのではなかった。少年が斧を取ると、セタンタは一度こちらを見て、それきりだった。斧は、よく研いであった。割った玉は、軒の薪の列の端に、見たとおりに積んだ。
日が尾根にかかるころ、セタンタが手を止めて、兎の後ろ足を少年の荷の上に置いた。
「持って行け」
分け前だった。施しではなく、手間の値だった。断る筋は、なかった。
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下りは、犬が途中までついてきた。沢の音が聞こえるあたりで止まって、雪の上に座った。そこに境があるらしかった。しばらく行ってふり返ると、もう、いなかった。下りの足は、朝の登りと同じ道を踏んで、それでも、あとは重ならなかった。
爺さまは兎の足を見ると、なにも訊かずに鍋へ入れた。肉の入った粥は、湯気のにおいから違った。
「……山の飯は、どうだった」
「黙って、食いました」
爺さまは、すこし笑ったようだった。火の爆ぜる音と、区別がつかなかった。
*
爺さまが休んでから、少年は火の前で、自分の荷の紐にあの結びを試した。ひと手間多いぶん、指が迷った。いくつめかで、形になった。ほどいて、もういちど結んだ。
『あの結びは、記録にあるか』
(ありません。——記録します)
『結びの名前は』
(記録に、ありません)
『……いらん』
熾がひとつ、崩れた。
明日も、夜明けに行く。同じ道でも、登りと下りの足あとは、まだ重なっていなかった。通ううちに、ひとつの芯になるのかもしれなかった。ならなくても、よかった。道は、踏んだぶんだけ、固くなるのだった。
(第三十三話 了)