第三十二話
朝、爺さまが道を教えてくれた。
「沢は、渡るな。右の尾根を、まっすぐだ。煙が見えたら、そこだ」
それだけだった。少年はかんじきを履いて、尾根へ出た。昨日、戸口から見た、いちばん手前の連なりだった。
登りは長かった。雪は里より深く、途中で一度振り返ると、里の屋根が雪の中に低く並んでいた。爺さまの家の煙は、もう見分けられなかった。
木々のあいだに獣の足あとが増えて、罠の跡もひとつ見つけた。掛け方が猟師の家のものと少し違う。留めの結びが、ひとつ多いのだった。
煙より先に、吠え声が来た。太く、木々のあいだを下ってきて、姿が見えたのはそのあとだった。大きい犬だった。立てば、胸まであるだろう。少年は足を止めて、動かなかった。犬は二歩手前で止まって吠えるのをやめ、かんじきと、荷と、手の匂いを長いこと嗅いだ。
それから、雪の上に座った。
家はその先にあった。歩き出すと、犬が横をついてきた。低い家で、屋根の石が大きかった。軒下には皮張りの枠が並んでいて、少年のものよりふたまわり大きかった。薪は高く積んであった。独りの冬の、備えだった。
戸が開いて、男が出てきた。
若い男だった。髭のまだ薄い顔で、手に皮剥ぎの小刀を持ったままだった。少年を見て、それから、横に座った犬を見た。
「……人手は、いりませんか」
「いらん」
少年は頭を下げた。断られたら、また考えればいい。来た道へ歩き出した。
数歩で、うしろから口笛が鳴った。ふり返ると、犬は座ったままだった。男がもう一度吹いても、犬は行かなかった。耳だけが、動いた。
男は犬を見て、犬は男を見ていた。少年は、そのどちらへも動けないまま立っていた。
先に目を外したのは男のほうで、雪を踏んで下りてくると、少年の前に立った。なにも言わずに、かんじきの紐の結びを、それから荷の皮の枠を見ていった。目が最後に止まったのは、手だった。この男も、訊かないのだった。
男が首を回すと、犬は、まだ座っていた。
「……夜明けに、来い」
男はもう戸口へ戻りかけていた。戻りながら、言った。
「セタンタだ」
名だった。名はいつも紙の上のものだった。口から聞いたのは、はじめてだった。
「……渡りです」
セタンタはふり返らなかった。戸が閉まって、犬が立ち上がり、あとを追った。戸口で一度、少年をふり返った。
*
帰りの下りは早かった。登りの足あとは迷いのぶんだけ遠回りをしていて、下りは、まっすぐに踏めた。
爺さまは火の前にいた。
「……置いてもらえたか」
「明日から。夜明けに」
爺さまは少しのあいだ火を見ていた。
「そうか」
それだけ言って、鍋に芋を足した。ふたつぶん、だった。
*
夜、火が熾になるまで、少年は起きていた。
『セタンタ、って言った』
(はい。記録しています)
聞いたことのない響きの名だった。里の者は誰も名を言わない。あの男だけが、名乗った。
外で、風が屋根の石を越えていった。
『明日、夜明けだ』
(はい)
犬の座っていた雪の白さを思い出した。眠りは、すぐに来た。
(第三十二話 了)