第三十一話
朝、目が覚めると、手が荷を整えはじめていた。
外は、まだ薄暗かった。囲炉裏に、火を起こす音がしていた。旅のあいだは、起きたら発った。畳んだ空の袋に手が触れて、止まった。行く先が、なかった。少年は、荷を壁に戻した。手だけが、まだ発つ気でいた。
爺さまは、もう起きていた。鍋に湯が立って、芋の粥のにおいがした。
「食いなさい」
粥は、ゆるくて、熱かった。ふたりで食うと、鍋は軽くなった。洗いものは、少年の仕事にした。ふたつの椀は、すぐ乾いた。爺さまの懐で、紙の音がした。手紙は、まだそこにあるのだった。少年は、なにも訊かなかった。
「……南へ、帰るのか」
爺さまが、手を止めて言った。
「春に。寄るところが、あります」
「峠は、もう閉じてる。春まで、開かん」
少年は、椀の中を見た。来た道の、長い下りを思った。
(記録でも、そうです。南の道は、雪のあいだ通れません)
声が、言った。爺さまの言葉と、記録が、重なった。
『……そうか』
帰れないことは、それで決まった。嘆く筋のものでは、なかった。雪は、毎年降る。道は、毎年閉じる。この土地では、それが冬なのだった。
*
昼まえ、少年は雪を搔いた。戸口から道まで。それから、納屋の前。里の道でも、雪搔きの音がしていた。搔いた雪は、どの家も同じ側に積んであった。風下だった。
納屋の戸を開けて、爺さまが干し芋を下ろすのを、手伝った。梁から、干した草の束が下がっていた。芋の棚と、漬けものの甕がひとつ。棚は、半分より下が、空いていた。ひとりの冬の、蓄えだった。
昼の飯は、朝の残りだった。どちらも、そのことは口にしなかった。
少年は、その晩から、椀を小さくしようと決めた。決めてから、それでは足りないことも、分かっていた。雪搔きと薪では、冬まるごとの宿に、釣り合わない。渡りの決まりにはない勘定だった。それでも、勘定は勘定だった。
*
夕方の火の前で、少年は訊いた。
「働けるところは、ありますか」
爺さまは、すぐには答えなかった。少年の壁ぎわの荷を見た。かんじきと、皮の枠が、立てかけてあった。
「……山を、やるのか」
「猟師の家で、習いました。罠と、始末を」
爺さまは、火に枝を足した。
「北の尾根に、狩人がいる。冬のあいだ、独りで山をやっとる。人手を、断る男だが——」
爺さまは、そこで少し黙った。
「訊いてみるといい」
断られたら、また考えればいい。訊くのは、ただだった。
尾根までの道は、朝に教わることにした。それで、話は終わった。この家の話は、いつも短かった。
尾根の方角は、暮れるまえに、戸口から見ておいた。低い山の連なりの、いちばん手前だった。
*
夜、囲炉裏の火が熾になった。
『春まで、どれくらいだ』
(雪解けの時期は、年によります。——数えられません)
少年は、熾を見た。数えない旅を、してきた。こんどは、数えられない冬だった。
『そうか。……ちょうどいい』
(はい)
声は、それ以上、訊き返さなかった。
爺さまは、先に休んでいた。壁の釘の手袋が、火の明かりの届くところに、あった。
明日は、尾根へ行く。少年は、目を閉じた。
雪の音は、しなかった。降っていないのではなく、屋根が厚いのだった。
(第三十一話 了)