第二十三話
獲る日の朝は、支度の音から違った。
猟師は弦を張るまえに、弓を火のそばに立てて、しばらく温めた。冷えた木は、いきなり曲げると折れる。言葉でなく、手つきがそう言っていた。
それから、弦をかけた。ゆっくり張って、二度外し、三度目で止めた。指で弾いて、音を確かめた。低い、短い音がした。
少年は荷袋を、板の間の隅に置いていくことにした。手紙は、いちばん上にある。それだけ確かめて、戸を出た。
犬は土間の柱に繋がれて、鼻を鳴らした。弁当の凍み餅は、女房が腰の袋に入れてくれた。
外は晴れて、風は北から来ていた。
*
きのうの谷まで、無言で歩いた。
猟師はときどき指をなめて立て、それから雪をひとすくい、宙に落とした。粉のような雪が、流れて消えた。その流れる先を見て、回り込む向きを決めるのだった。
風下に入ってからは、歩みがさらに遅くなった。十歩進んで、止まる。木の陰で、長く待つ。少年は猟師の踏んだ跡だけを踏み、猟師が止まれば止まった。
待つあいだに、汗が冷えた。動くより、待つほうが寒かった。息が白く立つのが気になって、少年は襟の中へ吐いた。教わったのではない。猟師がそうしているのを、見た。
急がないことが、この猟のぜんぶらしかった。
*
木立の切れ目から、鹿が見えた。三頭になっていた。掘った雪に頭を入れて、下の草を食んでいる。風は頬に当たって、鹿のほうへは流れていなかった。
猟師は長いこと動かなかった。それから、いちばん手前の一頭に狙いを定めたのが、分かった。若い牡だった。
矢をつがえ、引き絞る。息の音も、しなかった。
弦が、鳴った。
鹿が跳ね、二歩走って、雪に崩れた。残りの二頭は、林へ消えた。
*
駆け寄ると、鹿はまだ暴れていた。猟師が少年の腰を押して、まわれ、というように背中側を指した。少年は背中側から、腰のうしろに体重をかけた。蹴る足は、こちらへは届かなかった。
押さえた体の暴れが、手の下で小さくなって、止んだ。
猟師の刃が、喉を切った。雪が、赤くなった。それ以上は、広がらなかった。
腹を開くと、湯気が立った。冬の山の中で、そこだけ夏のような匂いがした。
内臓の始末を手伝った。猟師は取り出したものを雪の上に並べ、いくつかを袋に入れ、いくつかを鳥のために残した。手が、あたたかくなった。血のせいではなく、湯気のせいでもなく、触っているもののあたたかさだった。
終わってから、少年は雪で手をこすった。赤は落ちた。あたたかさは、すぐには落ちなかった。
帰りは、縄をかけて、ふたりで引いた。鹿は重く、縄は肩に食い込んだ。その重さのぶんだけ、進みは遅かった。誰も、なにも言わなかった。
家に着くころ、日は暮れかけていた。犬が吠えて、女房が戸を開けた。なにも訊かずに、湯と、吊るす場所の支度を始めた。
*
その晩、肝を火で炙って食った。猟師が先にひと切れ、それから少年に、ひと切れ。
噛むと、あつい味がした。
「……うまい」
ひとりでに、出た。嘘にならない言葉だった。猟師はなにも言わずに、もうひと切れよこした。
夜なべに、肉の塩の擦り込みが始まった。肉は細く切られて、板の間に並んだ。ひと冬ぶんの並びだった。女房が塩の袋を持ってきて、少年の袋からも、手のひらにひとつまみずつ使った。南の塩が、北の肉に擦り込まれていった。
寝るまえ、少年は手のひらを見た。洗ったのに、まだあたたかい気がした。
『手が、まだあったかい気がする』
(体温は、残っていません。あたたかいのは、手のほうです)
『……そっか』
少年は手を閉じて、眠った。
(第二十三話 了)