第二十二話
谷を下りるのに午前をつかい、登り返して、昼すぎに煙の下へ着いた。
登り返しの道には、踏み固めた跡があった。境界を越えてから、はじめての、人の通う道だった。
家は一軒きりだった。壁は太い丸太で、屋根は急だった。軒下に、薪が高く積んであった。犬が一声吠えて、戸が開いた。
出てきたのは、背の低い、肩の厚い男だった。少年を見て、なにも言わなかった。
「南から来ました」と少年は言った。「北東へ行く、途中です。……手は動きます。塩も、すこしあります」
男の目が、少年の手と、足と、荷袋を、順に見た。働けるかどうかを見る目だった。
「……飯は出る。働けば」
戸の奥から女房が顔を出して、入れ、というように顎を引いた。
*
土間に入って、少年は立ち止まった。
中は、煙と皮と脂の匂いがした。壁に、弓が掛けてあった。弦は外してある。その下に矢筒と山刀、太い縄の束、雪を掻く板。どれも、少年の知っている猟の道具より、ひとまわりも、ふたまわりも大きかった。
孤児院の罠は、兎をとる細い輪だった。ここの道具は、それとは別の仕事のためにあった。
少年は訊かずに、外の薪を割った。水を汲み、土間の雪を掃いた。どこの家でも、手はやることを知っている。
夕方、男が黙って、縄を一本よこした。ほどけかけた結びが、途中にあった。少年は結び直して、返した。男は結び目を指で確かめて、なにも言わずに壁に掛けた。
夕餉は、稗の粥と、干した茸の汁だった。少年が塩の袋を出すと、女房がひとつまみ舐めて、男と目を見交わした。
「……山の塩か」
「はい。南の、岩壁の跡で」
それ以上は、誰もなにも訊かなかった。訊かないことが、この家の作法らしかった。
*
朝、男が輪を二つ、少年の足もとに置いた。曲げた木に、縄を張ったものだった。自分のを履いて見せた。ひと結びずつ、ゆっくりと。言葉は、ひとつもなかった。
雪の上で、少年は二度転んだ。三度目から、足が覚えた。
男は弓を背に負い、矢筒を腰に付けた。弦は、張らないままだった。弁当は、凍み餅と干した茸だった。火は、持たない。歩く昼に火を焚かないのは、猟師も同じだった。
*
山に入ると、男の歩みが変わった。ゆっくりで、音がなかった。少年は同じところを踏んで、ついていった。
男はときどき止まって、雪を見た。足跡があった。少年にも、それが鹿だと分かった。分からないのは、その先だった。男は足跡の縁を指でなぞり、雪をつまんで、握って、捨てた。それから、方角を変えた。
食み跡のある灌木の前では、枝の折れ口を見た。寝屋のくぼみでは、屈んで、匂いを嗅いだ。どれも、言葉はなかった。指がさし、目が動き、少年がそれを追った。
猟師は、山を読んでいた。少年が道を読むのと、同じ目だった。
昼の休みに、凍み餅をかじった。男は少年のかんじきの結びを一度だけ見て、指で示して、直させた。
午後おそく、男が止まった。低くなったので、少年もならった。
谷の向こうの斜面に、鹿がいた。四頭。雪を掘って、下の草を食んでいた。矢の届く遠さでは、なかった。
男は長いこと見ていた。鹿をというより、鹿のまわりの雪と、風の通り道を見ているようだった。それから、静かに後じさって、山を下りはじめた。
今日は、獲らない。獲る日を、選ぶらしかった。
*
帰りは、来た跡を踏んで戻った。家の煙が見えたとき、犬がまた一声吠えた。
夕餉のあと、男が言った。
「あした、獲る」
「……はい」
夜、土間から、砥石の音がした。長く、規則正しく、止み、また始まった。
少年は板の間の隅に夜具を借りて、横になった。荷袋は枕もとに、手紙はいちばん上にあった。
『おやすみ』
(はい)
砥石の音は、まだつづいていた。少年は、その音を聞きながら眠った。
(第二十二話 了)