第二十一話
朝の湯には、もう入れるものがなかった。
それでも、いつもの手順で沸かして、ゆっくり飲んだ。白くない湯は、腹をあたためて、それだけだった。手順だけが、飯だった。
岩屋を出るとき、集めておいた枝の乾いたのを、奥に立てかけた。来たときにあったより、すこし多く。
道は、下りだった。歩きながら帯を締め直すと、結び目が、きのうより奥に来た。途中で一度、立ち止まって休んだ。腰を上げるまでが、きのうより長かった。休みの長さが、腹の減りの形だった。
*
昼、声が言った。
(松の内皮は、食えます。外の皮を剥いで、内側の白いところを。刻んで煮れば、やわらかくなります)
『……松って、食えるの』
(食えます。飢えの年の、北の食いものです)
(若い木を。皮は、日の当たる側が剥ぎやすい)
道々、若い松を選んで、小刀で外の皮を剥いだ。固くて、思ったより力が要った。中から出た内側の皮は、白いというより、生成りの色をしていた。削ぐと、かすかに松の匂いがした。
剥いだ皮は、荷に入れた。煮るのは、晩だ。歩く昼に、火は焚かない。
荷の中に夜の分がある。それだけで、午後の足は違った。
夕方、風のない窪みで火を焚いた。雪を溶かした湯で、刻んだ皮を長く煮て、口に入れた。
ひと口目は、口が驚いた。苦かった。筋が歯に残った。ふた口目から、腹が受け取った。噛んでいると、腹の底に何かが届いた。
『……食える』
(はい)
うまい、とは言わなかった。言えば、嘘になる。多めに煮て、残りは冷まして、あしたの昼の分に取り分けた。
*
次の日の昼、声が言った。
(記録に、塩の採り場があります。この先の、谷の岩壁です)
『塩……』
谷の岩壁は、道から少し外れたところにあった。声の言う道筋をたどれば、雪の下でも迷わなかった。
行ってみると、そこも、跡だった。岩壁の下に、足場に組んだらしい木が、雪をかぶって朽ちていた。岩肌には、鑿の痕が段になってついていた。
けれど、鑿の痕の奥に、白い筋は残っていた。
少年は小刀の背で削った。白いかけらが、手のひらに溜まっていった。舐めると、まぎれもなく塩だった。しばらく、それだけを舐めていた。足場の木は、踏むと崩れた。高いところの筋は、あきらめた。
塩は、空いていた粉の袋に入れた。袋は、また仕事を持った。
その晩は、松の皮の煮汁に、塩をひとつまみ入れた。
味が、生まれた。
少年は、ゆっくり噛んだ。
『……うまくは、ないけど』
(はい)
『きのうより、ずっといい』
*
三日目の朝は、湯に塩をひとつまみ落とした。ただの湯は、もう、ただの湯ではなくなっていた。
下りの道が、ひろくなった。昼まえ、雪の上に、枝を束ねて立てたものがあった。一本きりではなかった。間を置いて、また一本。新しい束も、古い束もあった。誰かが、この道に手を入れている。
しるべの立て方は、南の石積みとも、山ふたつ向こうで見た枝束とも、すこしずつ違った。土地ごとに、手が違うのだった。
昼の休みには、ゆうべ煮ておいた皮を食った。冷えていても、塩がしてあると、食いものだった。
しるべは、雪の下の道をなぞって、北へつづいていた。少年の歩幅が、すこし伸びた。
*
夕方、尾根の切れ目から、谷が見えた。谷はひろく、凍った川が一本、白く曲がっていた。
その向こうの山裾に、煙が、一筋立っていた。人の焚く火の、煙だった。
(谷を下りて、登り返します。明日の昼すぎに、着きます)
『うん』
今日じゅうには届かない遠さで、煙は暮れる空にまっすぐのぼって、やがて空の色に溶けた。
その夜の寝床は、木の根方にした。あしたは、人に会う。そう思うと、腹の減りが、すこし遠くなった。
荷袋を抱えると、いちばん上で、手紙がいつもの音を立てた。
少年は、煙の見えた方角へ頭を向けて、眠った。
(第二十一話 了)