第二話
村を三つ、山をひとつ越えた。荷袋の底で、あの手紙はまだ眠っている。北東は、遠い。
(本日の配達:一。峠下の炭焼き小屋。以後の受注はありません)
『じゃあ、今夜は星のよく見えるところで寝よう』
(把握しました)
炭焼きの爺は、煙の匂いのする小屋の前で手紙を受け取った。受け取って、困ったように目を細めた。
「渡りの。すまんが、読んでくれんか。近ごろ、字が滲むんだ」
目だ、と少年は思う。字は滲まない。
読んだ。町へ出た息子からの、達者でやっているという知らせだった。爺は二度うなずき、火の始末でもするような落ち着かない手つきで言った。
「……返事を、書いてくれんか」
書ける。下手だが。
「下手ですよ」
「構わん。わしが書くよりましだ」
爺は小屋の奥へ入って、布に包んだものを持ってきた。紙と、筆と、小さな硯。包みの布だけが新しかった。
「倅が置いてったんだ。いつか使うだろうと思っとった」
墨を磨るあいだ、爺はもう喋りはじめていた。
炭の出来がいいこと。秋口の雨で窯をひとつ休ませたこと。屋根を直したこと。倅が子どものころ、窯の火を怖がったこと。いまは町で立派にやっていること。無理はするなと言ってやりたいこと。帰ってこいとは言わんこと。言わんが、正月には顔が見たいこと。それから——
「飯は食っとるか、と」
それはもう、三度目だった。
紙は一枚きりで、爺の話は窯の煙みたいに、いくらでも出てくる。
(口述の整理が可能です。要約案——当方息災。炭は例年並み。屋根は修理済み。健康に留意し、正月の帰省を検討されたし。以上、紙面に収まります)
合っている。何ひとつ、間違っていない。
少年は筆を持ったまま、爺の手を見た。節くれだって、墨より黒いものが爪に染みている手だ。その手がいま、湯呑みを持て余すみたいに、置き場所を探してうろうろしている。
——ほつれたところは自分で直しました。下手ですが、あたたかいです。
あの手紙の一節を思い出す。あの字も震えていた。それでも、いちばん言いたいことの前では、震えたまま止まらなかった。
『合ってる。でも、違う』
(どこが、の指定が必要です)
『ぜんぶ、ちょっとずつ』
(処理できません)
『いいよ。おれがやる』
少年は書いた。
炭はよく焼けていること。屋根はもう直したこと。窯の火は、おまえが怖がったころと同じ色だということ。無理はするな、ということ。
それから、いちばん下に、いちばん大きく。
——めしは くっとるか。
下手な字だ。線は震えるし、大きさも揃わない。それでも一文字ずつ、止まらずに書いた。
読み上げると、爺は最後のところで、ふ、と鼻を鳴らした。
「三度も言うたか、わし」
「三度言ったから、一度だけ書きました。大きく」
「……そうか。うん。それでいい」
爺は紙を受け取って、字を、長いこと見ていた。焼くでも畳むでもなく、ただ見ていた。それから倅の宛先を言い、折り目を自分でつけて、少年に差し出した。
「頼む。渡りの」
「はい」
決められた銭のほかに、爺は囲炉裏で焼いた栗を包んでくれた。断る間もなかった。
荷袋に、手紙がひとつ増えた。こっちは、返事を待たない手紙だ。届いたら、それで仕事が終わる。——いや。
届いたら、きっと返事が来る。飯は食っている、と。
*
その晩、少年は言ったとおり、星のよく見えるところで寝た。
眠る前に、枯れ枝の先で、地面に字を書いてみる。めし。くう。ほし。
(筆順の提示は可能です)
『見てて』
(把握しました)
下手な字だ。朝には、風が消してしまうだろう。それでも、書けることは、もう消えない。
星がよく見えた。
(第二話 了)