峠を下りきると、風が変わった。麦の匂いに、燻した藁が混じっている。
(村です。戸数およそ四十。うち一軒、門に白布)
『白布って?』
(服喪の印。この地方では、死者が出た家が七日のあいだ掲げます)
少年は歩調を変えなかった。荷袋には手紙が三通。宛先は、粉挽きの親方、鍛冶の女房、それから機織りの婆さま。
村口で遊んでいた子どもが先に見つけて、奥へ駆けていった。「渡りだ! 渡りが来たぞ!」
畑の大人たちが手を止め、顔を上げる。誰も少年の名を訊かない。渡りが来た、で用は足りる。
「文はあるかい、渡りの」
「三通。粉挽きさんと、鍛冶の奥さんと——機織りのお婆さん」
最後の名前で、井戸端の女たちが目を見交わした。
(照合。門に白布を掲げた家屋は、機織りの家です)
少年は荷袋の口を、そっと締め直した。差出人の字は、震えていたけれど丁寧だった。返事を待っている字だった。
死んだ人への手紙は、どこへ運べばいい?
『なあ。こういうときの決まり、入ってる?』
(……検索します)
声が、初めてすこし遅れた。
*
粉挽きの親方は、水車の音のなかで手紙を受け取った。粉だらけの指を前掛けで二度拭ってから、両手で。
「すまんな、渡りの。ゆっくり読むで、返事は明日でいいか」
「明日の朝、発つときにもらいます」
(本日の配達残:二。日没まで、およそ二刻)
親方は挽きたての粉をすこしだけ紙に包んで、少年の荷袋に押し込んだ。断る間もなかった。いい匂いがした。
鍛冶の女房は、字が読めなかった。
「坊、悪いが」
「読みます」
炉の火の前で封を開ける。隣町へ嫁いだ娘からの、子が無事に生まれたという知らせだった。女房は鎚を置いたまま、しばらく動かなかった。それから思い出したように笑って、袖で目もとを押さえた。
「寺で習ったのかい、字」
「うん」
それで詮索は終わる。いつもそうだ。寺、のひと言は、どんな戸も静かに閉める。
三通目だけが、渡せないまま夕方になった。
寄り合いの年寄りたちは、囲炉裏の端で手紙を回した。誰も封を切らない。
「婆さまは、ひとりだったからな」
「身寄りは」
「いない。……いないんだ、それが」
手紙は少年のところへ戻ってきた。宛名の字はやはり丁寧で、紙の端は何度も撫でたようにやわらかかった。
「渡りの。おまえさん、朝までは居るんだろう。……どうしたもんかね、これは」
決めごとの得意な年寄りたちが、誰も少年の目を見なかった。
その晩、少年は鍛冶の家の納屋に泊めてもらった。藁の上に寝転がって、手紙を月にかざす。透けない。
(開封の権限は受取人にあります)
『受取人、いないよ』
(……規定では、配達不能物は差出人へ返送します)
『ただ、返すの?』
(規定は以上です)
少年は手紙を胸の上に置いて、屋根板の隙間から、星を見た。返事を待っている字だ。それだけは、封を切らなくても分かる。
*
朝、粉挽きの返事を荷袋に納めたあと、鍛冶の女房が墓へ案内してくれた。村はずれの、日当たりのいい斜面だった。土がまだ新しい。
「読んでやっとくれ」
女房はそう言って、先に帰った。それが、村の出した答えらしかった。
少年は墓の前にしゃがんで、封を切った。
(受取人の死亡により、配達は完了できません。音声は死者に知覚されません。合理性がありません)
『おれの頭の中の声だって、誰にも聞こえないよ』
紙を開く。
『でも、ある』
声は、それきり黙った。
「——『お変わりありませんか。こちらは膝が痛むほかは息災です』」
風が、草を撫でていった。
「『去年いただいた織りの手袋は、まだ使っています。ほつれたところは自分で直しました。下手ですが、あたたかいです』」
少年はそこで口をつぐみ、それから最後まで読んだ。
「『返事をください。短くていいのです。生きているとだけでも。——また会える日を、指折り数えています』」
墓は何も言わない。当たり前だ。それでも少年は、読み終えるまで一度も声を落とさなかった。誰かに届ける声で、最後まで。
立ち上がって、膝の土を払ったときだった。
(……)
『なに?』
(——不要な発話でした。忘れてください)
『変なの』
少年はちいさく笑い、墓に向かって、配達のときにいつもするお辞儀をひとつした。
*
村を出る道は二本ある。峠と、川沿い。
(差出人の所在:北東。徒歩でおよそ三十九日。現在の受注経路とは逆方向です)
『知ってる』
(返送は、次の市で他の渡りに委託できます。規定上、問題はありません)
少年は歩きながら、荷袋の上から手紙に触れた。読まれてしまった手紙。返事を待っている字。規定なら、それでいい。銭も宿も、この仕事にはもう出ない。
『でもさ。「読まれました」って、誰が言うの』
(該当する規定がありません)
『じゃあ、新しい決まりにする。読んだ者が、伝えに行く。——いま作ったから』
声は、今度は何も言わなかった。反対しないときの黙り方だと、少年はもう知っている。
北東は遠い。行く道々にも、運ぶ手紙はいくらでもあるだろう。急ぎはしない。急がないだけで、忘れもしない。
荷袋の底で、返事を待つ字が眠っている。
少年の旅に、届け先がひとつ増えた。
(第一話 了)