第一話
W A T A R I   N O   S H O N E N

峠を下りきると、風が変わった。麦の匂いに、燻した藁が混じっている。

(村です。戸数およそ四十。うち一軒、門に白布)

『白布って?』

(服喪の印。この地方では、死者が出た家が七日のあいだ掲げます)

少年は歩調を変えなかった。荷袋には手紙が三通。宛先は、粉挽きの親方、鍛冶の女房、それから機織りの婆さま。

村口で遊んでいた子どもが先に見つけて、奥へ駆けていった。「渡りだ! 渡りが来たぞ!」

畑の大人たちが手を止め、顔を上げる。誰も少年の名を訊かない。渡りが来た、で用は足りる。

「文はあるかい、渡りの」

「三通。粉挽きさんと、鍛冶の奥さんと——機織りのお婆さん」

最後の名前で、井戸端の女たちが目を見交わした。

(照合。門に白布を掲げた家屋は、機織りの家です)

少年は荷袋の口を、そっと締め直した。差出人の字は、震えていたけれど丁寧だった。返事を待っている字だった。

死んだ人への手紙は、どこへ運べばいい?

『なあ。こういうときの決まり、入ってる?』

(……検索します)

声が、初めてすこし遅れた。

粉挽きの親方は、水車の音のなかで手紙を受け取った。粉だらけの指を前掛けで二度拭ってから、両手で。

「すまんな、渡りの。ゆっくり読むで、返事は明日でいいか」

「明日の朝、発つときにもらいます」

(本日の配達残:二。日没まで、およそ二刻)

親方は挽きたての粉をすこしだけ紙に包んで、少年の荷袋に押し込んだ。断る間もなかった。いい匂いがした。

鍛冶の女房は、字が読めなかった。

「坊、悪いが」

「読みます」

炉の火の前で封を開ける。隣町へ嫁いだ娘からの、子が無事に生まれたという知らせだった。女房は鎚を置いたまま、しばらく動かなかった。それから思い出したように笑って、袖で目もとを押さえた。

「寺で習ったのかい、字」

「うん」

それで詮索は終わる。いつもそうだ。寺、のひと言は、どんな戸も静かに閉める。

三通目だけが、渡せないまま夕方になった。

寄り合いの年寄りたちは、囲炉裏の端で手紙を回した。誰も封を切らない。

「婆さまは、ひとりだったからな」

「身寄りは」

「いない。……いないんだ、それが」

手紙は少年のところへ戻ってきた。宛名の字はやはり丁寧で、紙の端は何度も撫でたようにやわらかかった。

「渡りの。おまえさん、朝までは居るんだろう。……どうしたもんかね、これは」

決めごとの得意な年寄りたちが、誰も少年の目を見なかった。

その晩、少年は鍛冶の家の納屋に泊めてもらった。藁の上に寝転がって、手紙を月にかざす。透けない。

(開封の権限は受取人にあります)

『受取人、いないよ』

(……規定では、配達不能物は差出人へ返送します)

『ただ、返すの?』

(規定は以上です)

少年は手紙を胸の上に置いて、屋根板の隙間から、星を見た。返事を待っている字だ。それだけは、封を切らなくても分かる。

朝、粉挽きの返事を荷袋に納めたあと、鍛冶の女房が墓へ案内してくれた。村はずれの、日当たりのいい斜面だった。土がまだ新しい。

「読んでやっとくれ」

女房はそう言って、先に帰った。それが、村の出した答えらしかった。

少年は墓の前にしゃがんで、封を切った。

(受取人の死亡により、配達は完了できません。音声は死者に知覚されません。合理性がありません)

『おれの頭の中の声だって、誰にも聞こえないよ』

紙を開く。

『でも、ある』

声は、それきり黙った。

「——『お変わりありませんか。こちらは膝が痛むほかは息災です』」

風が、草を撫でていった。

「『去年いただいた織りの手袋は、まだ使っています。ほつれたところは自分で直しました。下手ですが、あたたかいです』」

少年はそこで口をつぐみ、それから最後まで読んだ。

「『返事をください。短くていいのです。生きているとだけでも。——また会える日を、指折り数えています』」

墓は何も言わない。当たり前だ。それでも少年は、読み終えるまで一度も声を落とさなかった。誰かに届ける声で、最後まで。

立ち上がって、膝の土を払ったときだった。

(……)

『なに?』

(——不要な発話でした。忘れてください)

『変なの』

少年はちいさく笑い、墓に向かって、配達のときにいつもするお辞儀をひとつした。

村を出る道は二本ある。峠と、川沿い。

(差出人の所在:北東。徒歩でおよそ三十九日。現在の受注経路とは逆方向です)

『知ってる』

(返送は、次の市で他の渡りに委託できます。規定上、問題はありません)

少年は歩きながら、荷袋の上から手紙に触れた。読まれてしまった手紙。返事を待っている字。規定なら、それでいい。銭も宿も、この仕事にはもう出ない。

『でもさ。「読まれました」って、誰が言うの』

(該当する規定がありません)

『じゃあ、新しい決まりにする。読んだ者が、伝えに行く。——いま作ったから』

声は、今度は何も言わなかった。反対しないときの黙り方だと、少年はもう知っている。

北東は遠い。行く道々にも、運ぶ手紙はいくらでもあるだろう。急ぎはしない。急がないだけで、忘れもしない。

荷袋の底で、返事を待つ字が眠っている。

少年の旅に、届け先がひとつ増えた。

(第一話 了)

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