第十八話
朝、炭焼き小屋の跡を出ると、道はすぐに登りになった。
(尾根を北へ。日のあるうちに、岩陰に着きます)
『うん』
跡のない雪は、どこまでも同じ白に見えた。それでも、木々の切れ間や風の通り方に、人の使った名残はある。少年はそれを拾いながら登った。
昼過ぎ、雪の上に、枝を束ねて立てたものがあった。南の道なら、石を積むところだ。形は知らない。だが、立て方で分かる。しるべだった。同じものが、間を置いて、登りの先へつづいていた。
(記録には、ありません。しるべとして、扱います)
岩陰は、声の言ったとおりの場所にあった。その夜は、そこで眠った。訂正は、いらなかった。
*
ふたつ目の山は、ひとつ目より低かった。そのかわり、風が強かった。
日が傾くころ、下りの木々の向こうに谷が見えた。屋根が、七つ、八つ。どの屋根も立ちが急で、雪を載せていない。落とされた雪が、家々の足もとで土手になっていた。南の村は、雪を厚く載せて、低くうずくまる。ここの家は、立ったまま冬をやり過ごすつくりだった。
煙の匂いがした。境界を越えてから、はじめての人の匂いだった。
*
村口の最初の家で、戸を叩いた。
戸は、手のひらほど開いた。火の明かりを背にして、男の顔が半分だけ見えた。
「どこの者だ」
言葉の尻が、聞き慣れない形に曲がった。それでも、意味はまっすぐ通った。
「南から来ました。山ふたつ向こうの村から——そこの婆さまの言伝を、預かっています。宛先は、この村へ嫁いだ、その妹さまです」
男は、すぐには答えなかった。目が一度、少年の上から下へ動いた。
「……渡りか」と、男は言った。「ここまで来るのは、めずらしい」
戸が、すこしだけ広く開いた。
「上の婆さまなら、突き当たりの、水場の上の家だ」
上の婆さま、と男は呼んだ。少年の預かってきた言葉の中では、その人はまだ妹だった。
礼を言うと、戸はもとの幅にもどった。
*
突き当たりの家の前に、その水場はあった。氷が割ってあり、割り口は新しかった。
戸を叩くと、老いた女が開けた。小さく、背は曲がりかけていたが、目はまっすぐ少年に来た。
「山ふたつ向こうの村から来ました。婆さまから——姉さまから、言伝を預かってきました」
言い直しのひとことで、女の顔から問いが消えた。
囲炉裏のそばに、座らされた。女は縫いかけの布を取り上げ、針を持ち直してから、言った。
「聞こうか」
「短いものです」と少年は言った。「——今年も漬けた。それだけ、預かってきました」
針が、止まった。
布の上の手は、動かないまま、しばらくそこにあった。それから妹は、針を布に刺して置き、黙って立ち上がった。
土間の奥で、重い蓋の鳴る音がした。
戻ってきた手には、鉢があった。高く盛ってあった。
「おあがり」
少年は食った。山ふたつ向こうの囲炉裏で食ったのと、同じ味がした。
「姉さまは」と妹が言った。「達者だね」
訊く形ではなかった。
「はい。向こうの囲炉裏で、漬け物を食わせてくれました」
妹はうなずいて、それきり何も訊かなかった。少年が食うのを、火越しに黙って見ていた。
*
その晩は、囲炉裏の端に夜具を借りた。
朝、戸口の軒に、藁を編んだ輪が掛かっていた。隣の家の軒にも、そのまた隣にも掛かっている。少年の知らない支度だった。
(冬至の支度です。この土地の。冬至まで、七日)
『南と、ちがうんだね』
(支度は、ちがいます。日は、同じです)
発つとき、妹は戸口まで見送りに出た。
「気をつけて行きなされ」
それで、足りた。
村はずれで、少年は荷袋を詰め直した。北東の手紙を、いちばん上に。預かりものは、この一通だけになった。頭の中の言伝も、ひとつも残っていない。ひさしぶりに、静かだった。
道の先に、白い山なみが北へつづいていた。歩き出すと、荷のいちばん上で、紙のこすれる小さな音がした。
(第十八話 了)