第十七話
朝のうちは、自分の踏む雪の音だけを聞いて歩いた。
境界を越えてからの道は、あるようでないようなものだった。木々の間が広いところが道で、狭いところが山だった。それでも声の言うとおりに歩くと、昼前には川に出た。
(渡し場の跡です。記録では、ここに舟が——)
杭が二本、氷をかぶって立っていた。岸に引き上げられた舟は、雪の下でかたちだけになっている。舟板の隙間から草が伸びて、それも枯れていた。
『ほんとに、絶えたんだね』
(はい。証言と、一致します)
上流へ半刻。川幅の狭まったところに、岩場はあった。黒い岩が三つ、水の上に頭を出している。岩と岩のあいだは一跨ぎに見えて、近づくと、思ったより遠かった。
*
水は細く、そのぶん速かった。岩を打つ音が低い。飛沫のかかる岩の肩には氷が薄く張って、日を受けて光っていた。
少年は荷袋を下ろして、詰め直した。北東の手紙と粉の包みを上へ、重いものを下へ。荷袋を胸の前に抱え、紐を短く結ぶ。転んでも、荷だけは水に浸けない位置だった。
最初の岩へは、届いた。二つ目へ跳んだとき、右足が氷を踏んで、脛まで水に入った。
冷たい、と思うより先に、痛かった。細い錐で骨を刺すような痛みが、足首から脛へ突き抜ける。少年は声を出さずに三つ目の岩を蹴って、対岸の雪へ転がり込んだ。濡れた右足だけが、自分のものでないように重かった。
(体温が下がります。火を——)
『わかってる』
岸の松の根方に、風のない窪みがあった。枯れ枝はどれも凍っていたが、松の下の細い枝は乾いていた。市で買った火口が、はじめて仕事をした。
藁沓を脱ぎ、足を拭いて、火にかざす。足の指の感覚が戻るまでのあいだに、痛みは冷たさに、冷たさはただの冷えに、順番に戻っていった。冬の水に濡れたまま歩いた者がどうなるかは、渡りなら誰でも聞かされている。乾くまでは、歩かない。
*
午後の道は、登りだった。
(この先、半刻で炭焼き小屋があります。今夜は、そこが宿です)
声の言った場所に、小屋は、あるにはあった。屋根は半分落ち、壁は二方だけ残って、炉の石組みが雪をかぶっていた。使われなくなって、長いらしい。
『……あるには、あったね』
(記録を、訂正します。「炭焼き小屋」——「炭焼き小屋の、跡」)
残った壁は、風上を向いていた。屋根のある半分に雪はなく、土も乾いている。朽ちても、小屋は小屋の仕事を、半分だけしていた。
炉の石で火を焚き、少年は粉の包みを開いた。湯で練って、石の上で焼いた。焼けた村の男が挽いた麦は、遠い土地の夜に、はじめて飯になった。
『……おいしい』
(栄養価は、麦としては——)
『いいの。おいしいの』
*
夜は、これまでのどの夜よりも静かだった。
村の夜には犬の声や遠い戸の音があり、峠小屋の夜には風があった。ここには、火の爆ぜる音のほかに何もない。人の気配というものが、どの方角にもなかった。
『ねえ』
(はい)
『きみは——この道、来たことある?』
返事は、なかった。
火がひとつ爆ぜた。少年は待った。声が何かを調べるときの間だろうか、と思った。それにしては、長すぎた。
(風は、夜半に弱まります。明日の朝は、冷えます)
声は、何事もなかったように言った。
『……さっきの』
(さっきの、とは?)
平坦な、いつもの声だった。
『……ううん。なんでもない』
少年は火に枝を足した。
訊いても出ないものが、この声の中にはいくつかある。それは知っていた。けれど、いまのは違う気がした。
少年はその違いを、言伝を仕舞うのと同じところへ置いた。急がない。いつか分かる日まで、覚えておくだけでいい。
火は小さくなって、それでも朝まで保ちそうだった。壁の隙間から、星が見えた。
『おやすみ』
(はい)
少年は荷袋を抱いたまま眠った。北東の手紙は、胸のすぐそばにあった。
(第十七話 了)