第十六話
川下の町を出て二日のあいだは、まだ渡りの道だった。
すれ違う旅人があり、遠くに村の煙が見えた。道の雪には、人と橇の跡がまじっていた。それが、歩くほどに薄くなっていく。跡が減り、煙が減り、風は北へ向かうほど乾いて、頬より先に指がかじかんだ。一晩は道ばたの祠を借りた。軒は狭かったが、風は避けられた。二日目の昼には、道は少年の足跡だけになった。
(最初の村まで、半刻。ここまでの道順は、記録と一致しています)
『うん』
村は、山あいの窪みにあった。戸数はおよそ十。屋根の雪は厚く、どの家も低くうずくまるように建っていた。
村口で名乗ると、雪かきの手が止まって、上から下まで少年を見た。
「渡り? ……こんな時季にかい」
泊めてくれたのは、村口の家だった。囲炉裏があり、主とその女房、それに婆がひとりいた。渡りが来るのは久しぶりだと、女房が言った。秋の終わりに一人来たきりで、その渡りは山を越えて南へ帰ったという。北東へ抜ける者は、今年は少年がはじめてだった。
日が落ちると、村は雪明かりより暗くなった。灯を惜しむ暮らしが、戸の内に並んでいた。
夜、少年は囲炉裏の端で、この先の道を訊いた。
「あしたから、北東へ行きます。半日ほどで川に出ると聞いています。渡しは、ありますか」
主は火箸の手を止めた。
「渡し? ——ああ、あったな、昔は。絶えたよ。舟が朽ちて、直す者がいなかった」
(……記録を、訂正します)
声が、静かに言った。
「いまは、どうやって」
「上流へ半刻ほど戻ると、岩場がある。冬は水が細いから、跳んで渡れる。……荷があるなら、気をつけてな」
少年は、聞いたとおりを頭の中でくり返した。くり返せば、声が拾う。ふたりの地図が、今夜すこし新しくなった。
「この村に来る文は、どうしているんですか」
「年にいっぺん、里へ下りる者が、ついでに聞いてくる」と女房が言った。「こっちから出す文は——まあ、ないね」
「北東へ、何しに行きなさる」と婆が訊いた。
「死んだ人に、届いた文があります。読まれた、と、差出人に伝えに行きます」
婆はしばらく黙って、囲炉裏の火を見ていた。それから言った。
「山ふたつ先の村に、妹が嫁いでる。……嫁いだきり、もう長いこと会っとらん。達者かどうかも、分からん。分からんまま、毎年漬けとる」
文は、と訊きかけて、少年はやめた。この村から先へ、文を運ぶ者はいない。訊くまでもないことだった。
「言伝なら、運べます」
「今年も漬けた、と。……それだけでいい。あれには分かる」
「はい。急ぎませんが、届けます」
婆は頷いて、それから立って、漬け物を鉢に盛って持ってきた。今年も、の中身だった。よく漬かっていた。少年が食うのを、婆は火越しに黙って見ていた。
夜具は借り物で、囲炉裏の火は朝まで細く残っていた。
*
朝、川を岩場で跳んで渡ると聞いていたから、少年は藁沓の紐を締め直した。主が村はずれまで送ってくれた。
道は、村を出てすぐに細くなった。人の道が、猟の踏み跡ほどになる。
「その先は、渡りは行かん」
主はそれだけ言って、先に戻っていった。
(記録の新しい道は、ここまでです。ここから先は——古い記録だけです)
『うん。ここからは、確かめながら』
婆の言伝が、荷袋ではなく頭の中に、ひとつ増えている。
雪の上には、まだ誰の足跡もなかった。少年は、その白い道へ最初の一歩を置いた。
(第十六話 了)