第十五話
朝の帳場で、主人が先に口を開いた。
「山向きが、また溜まっとる。二日待てば、束になるぞ」
「今回は、運べません」
少年は框の前に立って言った。
「北東へ、行きます」
「北東」
主人は帳面から顔を上げて、少年を見た。
「うちの帳面にない方角だ。何の用だ」
「死んだ人に、届いた文があります」と少年は言った。「読まれた、という報せを、差出人へ届けに行きます」
「銭は」
「出ません」
主人は算盤に手を置いた。置いたまま、弾かなかった。
「遠いのか」
「およそ、三十九日と」
横で荷札を付けていた手代の手が、すこしのあいだ止まった。
「……銭にならんぞ」
「はい」
それだけ答えると、主人はそれ以上何も言わなかった。帳面に目を戻し、筆を取って、それから思い出したように言った。
「戻ったら、寄れ。束は、また溜まる」
「はい。戻ったら、寄ります」
約束がひとつ、川下の町に残った。
*
昼の市は、冬至の買い出しでにぎわいはじめていた。どこかで餅を搗く音がしていた。冬至まで、あと十四日だった。
少年は旅の買い足しをした。塩をすこし、火口をひとつ、縄をひと巻き。どれも値切らなかった。値は、変わらないほうがいい。銭袋は軽くなったが、まだ音はする。稼いだ銭で冬を越して、春になれば、また稼げばいい。
宿に戻って、荷を組み直した。焼けた村の男がくれた粉は、油紙に包み直して、取り出しやすいところへ入れた。道の飯にするつもりだった。あの納屋で挽かれた麦が、これから北東への長い道を行く。
峠下でもらった藁沓は、まだ雪を通さない。紐だけ、新しいものに替えた。矢立の墨も、足した。北東のどこかにも、書けない人はいるだろう。
荷袋は、これまででいちばん軽い。道は、これまででいちばん長い。
*
夜、三畳で、少年は手紙の宛名をあらためて見た。差出人の名の上に、村の名がある。どちらも、聞いたことがない。畳み皺が深くなったほかは、預かった日のままの紙だった。
『ねえ。北東への道、知ってる?』
(記録は、あります。ただし、古い)
『どのくらい、古いの』
(回答不能)
『……ふうん』
少年はそれ以上訊かなかった。訊いても出ないものが、この声の中にはいくつかある。
(最初の村までは、記録が新しい。その先は——渡りの通わない土地です。橋は落ち、村は移り、渡しは絶えます。記録との一致は、保証できません)
『いいよ。確かめながら行こう』
少年は灯を消して、夜具に入った。
『古い道はきみが知ってる。いまの道は、ぼくが見る。……そのために、ふたりでいるんでしょ』
(……把握しました)
声はすこし間を置いてから、そう言った。
夜具の中で、少年は三十九、と一度だけ数えた。長いのか短いのか、比べるものがなかった。
*
夜明けの橋を渡って、少年は町を出た。
見送りはなかった。ただ、框の上に、握り飯の包みがひとつ置いてあった。言葉の代わりに物を置く人が、この店にはひとりいる。包みはまだ、ほのかにあたたかかった。
橋の下を、朝の舟がひとつ下っていった。舟は南へ、少年は北東へ。渡りきったところで一度だけ振り返ると、蔵の白壁が朝日を受けて光っていた。
道の雪は、橋の向こうで、もう待っていた。
(北東——およそ、三十九日。最初の村まで、二日)
『うん』
荷袋の中で、いちばん上の紙が、歩くたびにかすかに鳴った。
(第十五話 了)