第十三話

W A T A R I   N O   S H O N E N

帰りの峠は、晴れて風もなかった。

(頂まで、二刻半。天候、安定)

『うん。……静かだね』

行きには道を先導するように続いていた橇の跡が、今日はどこにも見あたらない。あれから雪が二度降った。跡が沢筋へ逸れて消えたあたりも、いまはただ一面の白に戻っている。

夜は峠小屋で火を借りた。壁の隙間から差す雪あかりまで、行きと同じだった。

翌日、峠下の村を通ると、雪かきの手がひとつ上がった。少年も手を上げて、そのまま通った。借り物の藁沓は、今日も雪を通さない。

(焼けた村まで、半日)

四度目の坂を上がって、少年は足を止めた。

焼け跡の雪が、一箇所だけ掘り返されている。黒い梁が一本、雪の中から引き出されて、納屋の壁に立てかけてあった。切り口が白く、新しい。あの日、骨の色の空を指していた梁が、いまは壁に沿って、屋根の方を向いている。

(前回との差分:大型の廃材、一本。移動の向きは、村の内側です)

『……盗られたんじゃ、ないね』

これまで焼け跡は、夜のうちに梁や金物が消えていくばかりの場所だった。その焼け跡から、村の者が自分の手で、使うために運び出しはじめている。

畑は雪の下にあった。それでも畝の形だけは雪を持ち上げて、まっすぐに並んでいる。春までは、このままでいい。

(無事な屋根、三。人の気配、納屋に二)

『うん。ふたりのまま』

納屋の前に立つと、名乗るより先に、中から声がかかった。

「開いてるよ」

戸に、もう縄はない。こちらが呼ぶ前に開く戸になっていた。

土間では石臼が回っていた。男が右手で挽き、婆がかたわらで麦を足している。ごり、ごり、と石の音は、機の音より低くて重い。これも、仕事の音だった。臼は、少年が入ってから二回りして、止まった。

「もう戻ったのかい」と婆が言った。

「はい。峠は、静かでした」

「山向こうは」と男が訊いた。

「届けました。——機の音が、鳴っていました。着いた日の夕方も、発つ朝も」

「そうか」

男はそれきり何も訊かなかった。音の報せひとつで、足りたらしい。

「焼け跡の、梁を見ました」

「おれが切ってる。鋸なら、片手で挽ける」と男は言った。「冬のうちに、薪と、納屋の継ぎにする」

納屋には薬の匂いが、藁と竈の匂いに混じって、もう分けられないほど馴染んでいた。婆が立って鍋のほうへ動く。その立ち上がりの間が、前に見たときより短くなっている。

夕餉は三人で囲んだ。粥には、挽いたばかりの麦が入っていた。

夜になると、臼はまた回った。灯が落ちるまで、低い音が続いていた。

発つ朝、男が土間の隅から小さな袋を持ってきた。

「持っていけ」

袋は手のひらに載るほどの大きさで、それを男は、右手ひとつで差し出している。

「……銭は」

「いらん。——重いんでな」

少年は男の顔を見た。重いから、置いていく。いつか自分がこの納屋で使ったのと、同じ形の嘘だった。

嘘の重さなら、少年にも量れる。量ったうえで、受け取った。

「……はい」

男は、ふ、と息だけで笑いかけて、それから、はっきり声を出して笑った。

「粉屋の初荷だ。銭は、ぜんぶまけといた」

竈の前で、婆が肩だけ揺らして笑った。

袋の口からは、挽きたての麦の匂いがした。少年はその袋を、荷袋のいちばん底に眠る北東の手紙の上にそっと置いて、口を締めた。

「春になったら、妹さんの種は、たぶんぼくが運んできます。妹さんの町は、ぼくの回る道の内なので」

「ああ」と男は言った。「畑は、待ってる」

それから男は、少年の荷袋へ目をやった。

「そのときは、礼の文も頼む。——おれは、書けんからな」

「はい。ぼくが書きます。……下手ですが」

「知ってる」

村を出るとき、少年は一度だけ振り返った。納屋の壁には切り口の新しい梁が立てかけられ、畑の畝は雪の下に眠っている。竈の煙がひとすじ、風のない空へまっすぐに立っていた。

坂を下るにつれて、村は屋根から順に見えなくなっていく。煙だけが、いつまでも残って見えた。

誰がこの村を助けるのか。あの日、灰の中で生まれた問いに、まだ誰も答えていない。問いは、畝と一緒に雪の下で年を越すのだろう。

(荷の総重量、増加。申告された理由は、事実と一致しません)

『うん。そういう嘘は、量らないで運ぶの』

重いから持っていけ、と言われた袋は、たいして重くもなかった。少年はそれでも荷袋をいつもよりすこし丁寧に背負い直して、白い坂を下りていった。

(第十三話 了)

感想を送る

読んでくださって、ありがとうございます。
感想は作者に直接届きます(サイトには公開されません)。お名前の記入は任意です。