第十二話
音は、下るほど近くなった。
(機の音。この半刻、休みは二回。どちらも短い)
『うん』
返事は、まだ荷袋の中にある。読まれていないのに、機の音は、もう答えみたいに聞こえた。
山の道が平らになるころ、夕方の雪の向こうに屋根が並んだ。覚えている並びだ。一番奥に、煙の細い家。
納屋の戸は、指二本分、開いていた。とん、からり。戸の内から子どもが少年を見つけて、奥へ駆けた。
「おっかあ、渡りだ」
機の音は、乱れなかった。
「渡りです。川下の町から、返事を預かってきました」
戸の隙間へ言うと、音のあいだから、背中のままの声が返った。
「——朝、読む。いま手を離すと、目が狂う」
それから、首だけがすこし動いた。
「泊まってきな。飯は、あるよ」
夕餉は、また六人と一人で囲んだ。機の音は、椀が並ぶころにやんだ。女房は最後に来て、最初に食い終えた。織り手の一日は、機の都合でできている。
子どもがふたり、藁の上で糸を巻いていた。繕い物の山は、糸の束に変わっていた。仕事が、家の中の物を変えていた。
「機は、狂ってないかい」と老母が訊いた。
「……まっすぐだ」
女房は短く答えた。老母は、それきり何も訊かなかった。
灯を落とす前に、少年は機のそばを通った。筵の下で埃をかぶっていた木が、手の触れるところだけ、鈍く光っていた。
*
朝いちばんの納屋に、機の音はまだなかった。
土間で、女房は前掛けで手を拭いて、封書を受け取った。宛名を、しばらく見た。太い字だ。それから封を切った。
三行を、読み終えて、また読んだ。二度目は唇が動いて、最後の行で、動かなくなった。
「……三行かい。こっちと、おんなじだ」
紙を持ったまま、女房は少年を見た。
「まけろとは、言われなかったかい」
「言われました」
女房の手の中で、紙がすこし鳴った。
「手代さんが。すこしは、まかるのでは、って。——主人は、顔も上げませんでした」
少年は、見たままを言った。
「いつもの縞は、いつもの値で買う。だから、いつもの縞が来る。——そう言って、それきりでした」
女房はしばらく黙っていた。それから折り目をつけ直して、紙を胸元に入れた。
「そうかい。——飯、食ってきな」
機の音は、飯の前にはじまった。
*
発つとき、女房は機から手を離さずに言った。
「言伝を、頼めるかい。川下の旦那に」
「はい。言伝なら、運べます」
「二反、冬至の十日あとに上がる。——それだけ」
(冬至まで、二十一日。十日あとは、三十一日後です)
『うん』
数えたのは、織り手だ。数え終わった人の数字は、もう地図と同じだった。
「たしかに」
戸口を出ると、機の音は、もうはじまっていた。
*
村口から、道はまた峠へ登る。
『ねえ』
(はい)
『まけた値のはなし。おかみさんも、川下の旦那さんも、おんなじこと言ってた』
(語は異なります。論理は、同一です)
『ふたりとも、知らないんだよ。おんなじだって』
(伝達は、可能です。次の——)
『しない』
少年は雪を踏んだ。
『頼まれてないから』
渡りは、頼まれたものを運ぶ。頼まれていないものは、置いていく。
荷袋の紙は、ひとつ減った。かわりに、言伝がふたつ。目方にならない荷が、そろって川下へ向かう。いちばん底では、北東の手紙が、変わらず眠っている。
文字にならない荷は、覚えて運ぶ。
『——してるよ、と。二反、冬至の十日あとに上がる、と』
(復唱に、誤りはありません)
二度目は、峠の風の中で唱えた。
どちらも、急がない。
(第十二話 了)