第十一話
峠下の村は、雪の中にあった。
(峠下の村です。戸数、およそ十五。峠の口まで、半刻)
どの家も、雪の重さに肩をすぼめている。教えられた呼び名を村口で言うと、雪かきの手が止まって、一軒の家を指した。
戸口に出た女房に、少年は名乗った。
「渡りです。川下の町から、文を預かってきました」
女房は、少年と荷袋を順に見て、戸の内側へ半歩下がった。
「……読み屋は、この村にはいない。読んでもらう銭も、いまは」
「読むのは、ぼくです。ただです」
「……ただ」
「文は、読まれるまで終わらない。ぼくの、決まりなので」
土間の奥から、子どもがひとり出てきて、女房の腰の後ろについた。少年を、荷袋ごと見ている。
「川下って——うちの、かい」
「はい」
女房は前掛けで手を拭いた。それから、何にも触れずに、立って待った。囲炉裏の火が、細く音を立てていた。
少年は文を開いた。自分で書いた、下手な字だ。読み間違えようが、なかった。文を持ち直して、女房と子どもの方へ立った。読んで聞かせるときの——読み屋の構えだった。
「——生きている。銭は、まだ送れん。飯は、食っている。心配するな」
女房は、動かなかった。
「——子は、おれの真似を、まだするか」
しばらく、誰も何も言わなかった。屋根の雪が、すこし落ちた。
「……飯。ほんとに食ってると、思うかい」
「わかりません。働いているのは、見ました」
女房はうなずいた。それから言った。
「もういっぺん、頼めるかい」
少年は、はじめから読んだ。
二度目の終わりで、子どもが、袖の中で手を握って、開いた。
裏口で見た手と、同じ動きだった。
「……してるよ」と、女房が言った。「しょっちゅう」
「言伝なら、運べます。文にならなくても」
「じゃあ——『してるよ』と。それだけ」
「はい。急ぎませんが、届けます」
女房は文を受け取って、字を、しばらく見ていた。読めない字を、読むみたいに見ていた。
言伝は、目方にならない。それでも荷袋には、急がない荷が、またひとつ増えた。
発つとき、女房は土間の隅から藁沓を出してきた。
「峠を越えるんだろう。うちのが履いてたやつだ。置いてったから、ここにあっても、しょうがない」
すこし大きかった。少年は礼を言って、履いた。
*
村で一晩借りて、翌朝、峠の口に入った。
(峠小屋まで、二刻半。日没まで、四刻)
『うん。ゆっくりでいい』
雪は、脛から上へ深くなっていく。借り物の藁沓は、すこし大きい。それでも、濡れなかった。
途中まで、橇の跡が道を先導していた。峠の半ばで、跡は横の沢筋へ逸れて、雪に消えた。
少年は足を止めずに、そこを過ぎた。
昼を過ぎて、風が出てきた。
(風速、上昇中。頂の通過は、あすの朝を推奨します)
『うん。今日は、小屋まで』
急がない手紙ばかりで、よかったと思う。
夜は、名もない峠小屋で越した。炉に火を入れると、壁の隙間から雪あかりが差した。
(気温、氷点下六度。夜明けまで、五刻)
『いい。寝る』
あくる日の昼、峠の頂に立った。風の音だけが、していた。振り返ると、来た道は雪にのまれて、もう見えない。ここから先は、下りだ。
*
下りは、一歩ごとに雪が浅くなっていく。
峠を下りきると、風が変わった。雪の匂いに、遠くの音が混じっている。
とん、からり。とん、からり。
少年は、足を止めた。
姿より先に、音が届いた。あの朝、背中で聞きはじめた音が、まだ——
『鳴ってる』
(はい。止まっていません)
夕方の雪の上を、音だけが、先に渡ってくる。
(第十一話 了)